なんとなく変わってしまった

15年前、中学1年生になった時にコンタクトレンズを常用する日常が始まった。
その時からずっと、ある会社のあるブランドのレンズを装着していた。

それが最近、新たにコンタクトレンズをもらいにいった時、眼科で「今あなたが使っているものより性能が良くて少し安くなった、別の会社さんから出た新しいモデルがあるんです」と教えてもらうことになって、結果としてお薦めしてもらったそのモデルにレンズを変更することになった。

ずっと同じブランドのレンズを使っていたと言っても、アップデートされたりマイナーチェンジはあった。
それでも、15年も同じところのレンズを装着していた私にとって、「まだ今から変わりゆくことってあるんだ」と、自分の身に起きた大したことなさそうな変化が、すごく大きなものに感じられた。

変わるということが身近に起きたことが少し怖い気もしたし、そもそもはじめに自分が意図していたことは、「(これまで通りのコンタクトレンズを)追加で新しくもらいに行こう」ということだけだったから、抗うことでもないような、急に流れ込んだ変化の迫られように、呆気に取られてしまったのかもしれない。

 

前のコンタクトレンズがまだ少しだけ残っていて、新しいレンズを装着する日々が始まっていないから、「つけたら変わってしまう」気が今いちばん増大しているのかもしれないし、新しいものを身につけていくことが何日も続いて、それが当たり前になれば、こんな感情はどうでもいいものになりゆくのかもしれないが。

 

 

 

 

映画やドラマやアニメの鑑賞ログをつけていくアプリであるFilmarksを数年前から愛用している。
自分のプロフィール欄には、マイベスト10の映画を公開することができる。

昨日の夜、ふとそのマイベスト10をみた時、少し腑に落ちない感じがして、ちょっとだけ変えた。

設定した時よりも新しい時期に観た映画が新たにベスト10に入ってくることがあることは想像していたけど、すでに観ていた映画の順位自体が変わることはないだろうというつもりで設定していたのに、過去に自分がつけた順位に納得がいかなくなっていたことに気づいた。

順位の入れ替えをしながら、また、「変わることってあるんだ。」と不思議な気持ちになった。

 

 

 

 

高校生の頃持ち歩いていたエナメルバッグに、好きなものやかわいいと思えるもののステッカーをベタベタと張ることで自分の個性を少しでも主張したいと思っていた時期が過ぎて、それ以降、自分の所持する何かにステッカーをたくさん貼りつけることをしなくなった。

高校卒業後にマイパソコンを持つようになって、パソコンの外面にたくさんのステッカーを貼る人が一定数いることを知っても、なんだかそれをやる気にはならなかった。

逆張りで個性を主張できると思っていることがある私だから、単純にそういう人を多く見て「自分はやらない」と決めただけでもあるし、それと同時に、高校生の頃の無敵自意識を持てなくなってから、何かにステッカーを多く貼ることが怖くなってしまったからでもある。貼るステッカー貼らないステッカーの取捨選択をしていく自分やステッカーの配置などを気にし過ぎてしまう大人になった。

だからそういうことはこれからもずっとしないんだろうな、と自分を決めていたつもりだった。

最近、パソコンにつけているカバーにちょっとした汚れがついていることに気づいた。できる限り拭いてみたり工夫しようと思ったが、汚れなのか脱色なのか、その気になる何かが元のように戻ることはなかった。

 

映画館で『THE FIRST SLAM DUNK』を観に行った時にもらったステッカー集がちょうど手元にあって、気になる汚れがこれでちょうど隠せるかも、と思いたち、「パソコンの外面にステッカーをベタベタ貼ったりしない」という若干のマイルール的が見事に破られた。

これ以上増やすつもりもないけれど、「ずっとこう」だと思い込んでいた何かを変えた自分に驚きもしたし、「やっちゃった」という感覚がそれからずっと残って、閉じたパソコンを見るたびに、ただ、「そうかあ」とだけ、思ったりする。

 

 

変わらないと思い込んだり変えないようにしようと意図していたことが変わりゆくことはたくさんこれまでも見てきたはずだったし知っているはずだった。

なのに私は、ここ最近のなんてことない小さな変化に感じる必要もなさそうな寂しさと戸惑いを感じて、「私って、変化と折り合いをつける力がそうはないのかもしれない」と気付かされる。

変化を、うまく噛みきれないまま飲みこんだ。飲みこむことに異論があるわけでもなく、イヤというわけでもないものたちだから。

Filmarksの順位変化なんてすべて自分の問題であり最初から最後まで自分だけが関与して自分が決めたことなのに、「本当にこれでよかったのかな」と、一晩寝て起きてみてからも思う。気にしすぎなんだろうけれど。気にしすぎというか、解釈をしようとしすぎなんだろうけれど。

 

このわだかまりたちが、変化に対するちょっとした困惑が、早々になくなりゆくものだということも想像している。

これまで書いた変化と自分の感情は、おそらく気にするようなことでも、解釈しようとすることでもない気もする。すればするほど自分にとってよくないことでもあるのかな。それはよくわからない。

 

もしかしたら、良い変化も悪い変化も含めてすべての変化を受け入れることに耐え難さを感じている自分が、すべて維持だけを望みたい、と甘えた気持ちでいる自分が、こうした惑いや驚きを増幅させてしまって、勝手に解釈に悩んでいるだけだという感覚もある。

 

 

4月からは色々なものがガラッと変わることはもう決まっているのに、その心づもりや実感がこの身にないまま、小さな変化に、さみしくなっている。

このよくわからない感情を、見向きもしなくていいはずのそれらを、それでもなんだか残したいと思った。

 

なんとなく変わっていったものたち。なんとなくを拡大解釈したがる私。