もっと、書くことをしてみようと思った。
大学生の今、授業で出される課題を通じて書くことは継続しているけれど、他の人が読める形で出していこうと思う。
ある授業で、自ら知覚したことを言葉にして身体に落としこむことの重要性が説かれた。
知覚したものの中で自分は何に価値を見出しているのか、ある場所に自分はどのように「居る」のか、自分はどのように物事を対処しようとしているのか。
そうしたことを認識するために、知覚したものそのものと、そこから自分が何を感じているかを言葉にしていく訓練をしていってほしいという。
そうして、先生はまず手始めに、大学構内の一部の写真を共有した。
写真にうつった場所が見えることを想定した上で何がそこにあるのか、そしてそこから何を感じるのかを言葉にして書きあげる課題のためだった。
私は、自分の通うキャンパスの建物が好きではない。
一体この環境のどこで、人と集うことを楽しんだり、勉強で疲れた自分を癒せるのだろうか。
そうしたことを常に感じていた。
しかし、そのことを言葉にまとめあげたことはない。
何がそんなにも居心地の悪さを私に感じさせていたのか。
言葉にしてようやく、少しだけ理解できたような気がした。
一部とはいえ、自分の通うキャンパスの環境を時間をとって見直し、考え、言葉にした時、私の感じていた「なんとなく」の輪郭が見えたような気がしてそのことにほんの少し満足感を得ていた。
書き終えたタイミングで、先生によるいくつかの学生の文章を取り上げての講評が始まった。
他の学生の文章が共有された時、私は、急に自分の文章の粗っぽさが気になって、「こんなことしか書けないのか」と恥ずかしくなり、自分が書いたことに自信が持てなくなった。
それでも、少しだけ得られたはずの満足感をなかったことにしたくなくて、「私の文章だって少しはいいところがあるはずだ」と思いたくて、私も先生にみてもらいたい!という気持ちが湧いた。
けれど、自分の書いた文章が他の学生たちにも共有されるという恥ずかしさに耐えられそうになく、その場で見てもらう勇気を出さずに、他の学生たちの文章とそれに対する先生のフィードバックをそのまま受け止めるだけで、授業を終えた。
授業を終えた時、他者(それもなるべく権力のある他者)からのフィードバックがなければ自分のしたことを肯定することもできないことに、愕然とした。
本当に驚いたし、自分を情けなく思った。
自分が、権力というものにかなり強いコンプレックスを持っていることは知っていたつもりでいたけれど、力のある他者からの肯定がなければ自分のしたことを価値づけたり面白がったりすることができないというのは、これから生きる上であまりに悲しいことだと思った。
そういう精神だから、私は自分の選択や、したことの責任を取ろうとしないのだと痛感した。
自分で自分の責任を取らないから、被害者意識に安住して何かを変えようと努力もしないし人のしていることを冷笑して必死に自分を守ろうとする。
認識してはいても、その度に目を背けてきた自分のダサさが、課題に向き合ったことで目を背ける暇なくのしかかってきた気がした。
カッコいい大人にはすぐになれなくても、自分の嫌いなダサさを持つ大人にはなりたくない。
権力へのコンプレックスのために自分の言動や気持ちが容易に揺り動かされてしまう幼稚な自分を変えたいと思った。
"自分の決めたことをする自分を、揺るぎなく肯定できる自分"を少しでも確立させるために一体何が必要なのかを考えつづけて数日が経った時。
必要なのは、「もっと身体に気を遣うこと」と、「自分で言葉を書くこと」だと感じた。
先に出てきた先生が身体知を重視しているのはよくわかる。
身体に意識を向けることは6年前に摂食障害を患ってから嫌というほどやってきた。
身体のことを意識しなかった日は、あれから一日もない。
といいつつ、意識を重ねてきただけで身体のことを理解しているか、ひいては自分を理解しているかと言われればやはり不十分さを感じる。
意識したつもりだけでは、実際の自分に落とし込めることは少ない。
自己を律するためには自分に責任を持たなければいけないし、
自分に責任を持つためには、自分の選択に意識的にならなければいけない。
自分の選択に意識的になるためには、日々の認知の精度をあげたほうがいいだろう。
そのためには、やはり自分を知らなければいけない。
知覚の主体である身体を働かせ、ケアし、また働かせる。
その繰り返しをしながら、自分の地図をつくっていくべきではないのか。
それに、身体のことに気を遣うというのは時間の使い方を変えることである。
お風呂につかって、ストレッチしたり、
朝少しだけ早く起きてヨガをしたり、
しっかりとご飯をとったり、自炊をしたり、
運動する時間をつくったり、
睡眠時間をきちんと確保したり、
手を使って書いたり…
本当はやりたい(やるべき)そうしたことを、課題やネットサーフィンをする時間などによって「そんな余裕がない」と切り捨ててきた。
そうして心の余裕も失っていく。
それがまた、私を負のスパイラルへと落とし込んでいく。
けれど、人の評価を得られるために頑張るよりも前に、たとえGPAが悪くなったり単位を落とすことになったとしても、ずっと付き合っていく自分を生かすための日々の努力をしてみたい。
昨年は、感染症の全世界的な広がりがあったことで、明日死んでもいいように、「惜しみなく勉強しよう」「遺書を書くつもりでレポートを書こう」という気概で学校のことに取り組んでいた。
結果、評価は結構いいところまでいったし、学びは多く得られたことも本当にたくさんあった。
けれど、自分の身体を疎かにしすぎて、その後遺症が今も残っているような感覚がある。
大学という場にいると、教授たちから評価を得ることができる。
これは権力に弱い私にとってはものすごい動力源である。
一方大きなプレッシャーでもあり、常に他者評価に怯える自分から逃れられない地獄に落ちやすい。
そんな自分でいることが疲れて自分を変えようとしているのだから、無理矢理にでも他者が決めたことより自分に集中する時間をたっぷりつくってあげて、自分を肯定できる気にさせてあげなければいけない。
そのためには身体を使ってケアする時間を増やすことが良い気がしている。
時間を惜しみなく使って身体に気を張り気を遣っていくことが、私の「今の自分を変えたい」という思いにもっとも寄り添ってくれる、重要なことなのだろう。
文章はというと、やはりこれも自分の感じたことに集中するために必要だと考えたことである。
私自身、もともと文章を書くことはあまり苦ではなく(書くことを省略できなくて長くなってしまうこともあるのが悩み)、これはまた別の機会に整理し直し書こうと思っていることだが、大学で書くことを課されていることで力を得ていたりもする。
しかし、書くことを日常的に行っているとはいえ、学部生の課題となると、権力コン
常に「教えてもらったこと」と「教えてくれた人」のことを念頭におきながら書いていることになっている。
そのため、自分が主体となって知覚したことを書くことはそう多くはない。
だけど、自分の感じたことを誰かの意見や評価を聞く前にそのまま受け止めることができるようになりたいから、もっと自分が感じたことや考えたことを、自分のために、軌跡を残すように書いてみたい。
感動したことから嫌なこと、
小さな発見から掘り下げたこと、
大学で学んだことや、
勉強したいことなどを、
自分のために、時間を使って、書く。
ここ最近は、自分主体で自分が書くものを人に見られることをかなり恐れていたけど、それでも文を書くこと自体は好きだ。
それによって整理される自分がいるから自分のためになるし、ブログという形である程度人に見られることを想定した方がやる気にもなるし、文章やつながりがおかしくないかも考えられていい。
だから、ブログをやっていこうと思った。
まずは、なんでも続けられるようにすることが重要なので、数ヶ月間隔があいたりすることないように、定期的に書くことを続けていけたらと思う。
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今後書きたいことを自分のためにメモをすると、
大学に入ってよかったこと、
今の自分が研究したいこと、
研究につながる文献やツイートのメモ、
Twitterで最近よく見るビジネス界隈?のやり口への不満、
身体ケアのためにやってみていることや気にしたいこと、
やっているサークルのこと、
行きたいハワイのこと、
柔軟性のない真面目さについて、
など。
あまり短いブログを書いたりすることが慣れていないのだけど、ツイート3個分くらいの言いたいことがある時はブログに書いてみる、ということをやって、とにかく書くことを継続していきたい。
ブログを書き始めるぞ、という決意表明とその動機についてのブログ。