密度の濃い軽さ

人生で初めてフルタイムで働いた先は広告の制作会社で、私はその時20歳だった。

中学3年生の頃から広告業界に憧れていたので、制作会社が何をするところかも知らずに入ってみて、私の思い描いていた「広告」業界の給料とは反対に、当時の東京都の最低賃金での雇用だったけど、広告ならなんでもいいと思っていた。

怖いもの知らずでアルバイトとして入ってみて、「いくつなの?」と周りの先輩方や仕事先の関係者の方に聞かれるたびに、「20です」と答えると「ハタチ!?!?」とよく驚かれた。

大卒入社の人が多いこともあり、あるいはそれなりのプロたちと関わる機会が多い仕事環境でもあったため、確かにあれから7年が経った今考えれば、二十歳の人間がいると聞けば私も同じような反応をしてしまうと思う。

 

同じ反応をもらうことが複数回重なると、「私まだまだどこいっても年下側だなあ」と思わざるを得なかった。

その当時は、周りがまだ大学に通っている人も多い中でフルタイムで働いているという事実にちょっとだけ縋りたくて、私はちょっと大人になったと思っていたし、でも、誰からも「すごく若い子」という扱いを受けるから、社会人としてのプライドを持てるだけの他者評価は追いついていなかった。

 

 

激務もあって、今よりもっと心身が弱かった私は半年でリズムを崩し、それでも周りが自分以上の激務で仕事をしていたからこそ、「私はできなかった」という後悔を持ったまま退社した。

けれど、あそこにいたこと自体は後悔はしていなくて、むしろ二十歳の自分があの場にいたことは刺激が強く、私が大学進学を決める大きなきっかけとなってくれた。

 

 

大学に入ろうと決めたのは21歳の頃で、それからもう6年が経った。

私は今でも大学にいる。

 

周りの友人や大人が「一年はあっという間だ」とこぼすたびに、同調しておきながら、私はいつまで経っても、時が過ぎるのが長過ぎると思っている。

早く大学卒業したい、早く授業期間が終わってほしいと、常に願っているからか、この6年を「はやかった」と心から思える時などなかった。

時が過ぎるのが早い、あっという間だと感じられるのは、それだけ、慣れていることを日々やれていたり、安定がある程度あるからなように思ってしまう。

早く社会に、人生に慣れて、時が早いと言いたい。

もちろん、高校卒業してもうすぐ10年になるとか、私の好きな芸人さんが「8月過ぎたら大晦日」と言っていることに共感したりとか、その時その時で、「気づいたらもうこんなところまで来ていたのか」と思うことはあるから、時が早いなどと思わないということではない。

ただ、長いなと思う。

いつまで経っても進んでいる感じがしなくて、1週間に2,3日は焦りに駆られる。

 

 

そんな私でさえ、6年も大学にいれば、私があの時「ハタチ」であることに驚かれたよりも年下の人に出会う機会もあって、27の自分が時には18歳と接すると思うと、「こんなやつと出会わせてごめんね」と思わずにいられなくなる時もある。

2年くらい前までは、大学にいる人たちにそこまで思わなかった「若い」という感覚を、今年は大学にいてよく感じる。

現役ストレートで4年生の、22歳くらいの人でさえ新入生を見て「若い」としきりにいうのだから、まあそう思うくらいはいいか、と自分を保っている。

 

 

そういうわけで、徐々に、自分の立場が、その環境の中で圧倒的に年下であることが多かったのが、大学内においては、そうでもなくなって、むしろ上側になっていった。

大学内で歳上側になることはあまり褒められたことではないのでそのこと自体は恥ずかしいし、なんでもないのだけれど、どこにいっても年下、というポジションは、心配しなくても徐々に変化するのだな、と時を経たからこそ学習もしている。

 

 

 

先日、学外のある研究会に参加した。

懇親会で、80近い研究者の方に「あなたは可能性の塊だよ。本当になんでもできる。私なんて、棺桶に片足突っ込んでいるようなものだからね」と言われて、つい笑ってしまった。

笑ってしまったのは、「この『私なんて』に勝てる言葉はないな」と思ったからだった。

 

私もよく、「私なんて」と言ってしまいがちだが、レベルの違う「私なんて」を言われて、「私も、こういうこと言う歳にいなるまでは『私なんて』と言うのをやめよう」と決めた。

 

 

 

「私なんて」とよく思いがちであることはいいことではないとそろそろ思う。

この前、中高時代からの友人二人とあって、三人でクリスマスパーティのことを計画しながら夕食を食べていた時のこと。

 

私が入学したその日に隣の席に座っていた、部活も同じで笑い合う日々を長く過ごした一人の友人が「あなたは気を遣いすぎだ」と言ってくれた。

まあそのこと自体はこれまでも誰かに言われたことがあったから、いつも通り「ああまた言われちゃった」と思おうとしたが、そのあと、「気を遣いすぎて、今日のごはん来ないのかなって思っちゃってたよ」と言われた。

 

この三人で集まるのは何も久しぶりではなく、3週間前にも彼女らと集まっていたから、私としてはしょっちゅう会えるくらいの仲でもあると思っていたが、そんな間柄にもそう思われているのか、と一瞬言葉を失ってしまった。

 

 

私たちは今年のクリスマスパーティでプレゼント交換をすることにしていて、そのプレゼントをどう決め合うか、を話している時に、「あなたはストライクゾーンが広そうというか、これは絶対に合わないとか嫌いそうってことがそんなになさそうで、プレゼントを選びづらい、思いつきづらい」と言われた。

 

その延長線上に、「いいことだけど、そうやって幅が広いから、交友関係も同じで、あなたは交友関係もいろいろあるけど自分から求めないイメージがある。でも、あなたから求めないということは、それはつまり自分は必要とされていないと思ってしまうことがある」「あなたは人をもっと頼るべきだ」というようなことを付け加えられた。

 

 

私は常に人を求めている人間だと自己認識していたけど、私にとって結構大事な友人にそう思われていたと知ってかなり驚いてしまった。

そうか、私からあんまり強く主張しないせいで、私はすごく大事なのに、大事だと思われていないと思うことなんてあるんだ、と思った。

 

恋愛関係になると、なるべく相手に好きとか行動で愛を示したいと心では思っているしそうしようと行動できる気がしていたけど、まさか友人にそれが伝わっていないとわかって、これじゃダメだ、と思い直した。

 

求めて断られたり、求めてもうまくいかなかった時の方が、求めないでつらいままでいるより自分にとっては苦痛な気がして、それを避けていたんだと改めて思った。

これ、数ヶ月前に恋人と別れた時に「あなたは傷つくことを恐れて現実を見ていない」というようなことを言われたことと同じだろうなと思い、あれがすごく心に残った意識でいたものの、全然変わってない自分に気づいた。

 

私なんかに時間作ってくれて本当にありがとうとは当然思うし、私なんかが何を求めていいのかわからない、という意識を持ちすぎて、気づいたら、相手も私からの愛を感じられないようになっているなら、それはすごく悲しいことだと感じる。

 

だから、友人に、「そんなことないけど、そう思わせたくてそうしているわけじゃないから、どうしたらうまく人頼れるか教えてほしい」と助言を乞うた。

人を頼るということは、昔より上手くやれているつもりだったけど、大事な友人にそう思われていないなら、それはできていないのだろう。

 

そういえば、別の中高時代からの友人にこの前会った時、「あなたの乗る路線の改札まで送るよ」と言われて、即座に「いいよやめてよ!私の改札の方が遠いんだし!」と伝えた時、ちょっと怒られた。「なんでそんなこと言うの?送らせてって言ったんだからそれに乗ればいいのに!否定すんなよ!」と言われたのだった。

こういう扱いを受けて、あとで「やっぱり付き合うの疲れた」と思われて迷惑になったり負担かけるくらいなら否定して何もされないで当たり障りないまま付き合っていたいと思うのは自分都合なことなのだと今更ちょっとだけわかってきた。

 

もっと、こうしてほしいとか、こういうことのために会いたい、会ってほしいと言っていいし、会う時にこうしてほしいとかそうしていいのだと具体的なアドバイスを受け、「もっと心に別の人間を住まわせて、自分の選択ではしなさそうなことをして、うまくいかなければ勝手にその人を住まわせてそいつがやったってことにしてもいいんだ」とさえ言ってくれた。

私はそうしている時があるよ、と二人とも言うから、その心がけを学んでみたくなった。

 

そう考えると、ちょっと楽になって、別の友人たちに、「会いたい」とか、「まだ返事とかちゃんとできていなんだけど体調良くなったらちゃんとするね」とか、「出社のタイミング合う時一緒にランチしてほしい」とか、「相談したい」とか、そういうことを伝えることがここ数日できたのだった。

すると意外にも相手からは悪い反応がなくて、むしろ会いに行くよとか、ちょっとドライブするのでもいいねとか、年末の予定わかったら連絡するねとか、そういう返事をもらって、そのことにも驚きつつある。

 

頼るとか甘えるとか、もっと意気込んでやっていたが故に「やるときはやっている」つもりになっていたが、私に必要なのはもっと軽い甘えだったような気がしてきた。

 

 

 

 

 

 

可能性の塊だよ、と言ってくれたあの人は、半世紀以上この研究会に参加していると言っていた。

 

別の研究者の方は、シンポジウム後の質疑応答の時、「年金生活者の〇〇です」という自己紹介をしてから質問をしていて、その方なんて、その分野を研究したいと最近思うようになった私でさえ論文を読んだことがあったので、「こんなすごい人がこんな軽口叩くんだ」ということにも驚いたり笑ってしまった。

 

そしてまた別の方は、私に、「こういう学会や研究会でたくさん遊んでね。たくさん遊ぶためには、発表すればいい。発表したら遊べるようになるよ」とプレッシャーにならないような形で声をかけてくれた。

 

 

 

朗らかで軽いユーモアが自然と出てくるような大人に出会うと、私がこうなりたいのなら、もっと軽く甘えて軽い頼り方をしていくことからだなと思う。

 

二十歳のあの時よりは、もう少しいろんなことを経験したし学んだし考えてきたつもりだったけど、まだまだ、学ばせてくれる人が周りにたくさんいる。

いつまでも、私の幸せを願いながら私の未熟さを指摘してくれる友人がいることが本当にありがたい。

たくさん吸収できる立場でい続けたい。

そのためにも、私はあなたの力が必要ですと素直に言える大人でい続けられる努力をしていきたい。

2023年の最後の方にわかった自分の不足点を、少しでも納得いく形で行動できるようになったと、一年後には自信が持てるようになればいい。