生きることが希望になることが、最大の希望

恋人との別れ際、私の不安を押し付ける形で恋人に怒りをぶつけてしまった。

 

相手からの愛を日々たくさん受けているはずなのに、自分自身の存在に対する肯定感の低さのせいで、それらに懐疑的になり、不安が募って、それがある程度貯まると爆発してしまう。

こんなことは、一度や二度の話ではなくて、何度かやってきている。


好きなはずなのに怒ってしまう自分自身が何よりも苦しくて、なぜ怒りを私が覚えたのかをずっと反省し続けているうちに、自分自身の、人間関係に対する猜疑心や被害妄想のせいで、試し行動をしてしまっていることに気づく。

 

誰かから与えてもらった愛を認識できない、あるいは知らず知らずに無視してしまっているせいで、

「自分ばかりこの人のことが好きなんじゃないか」

「自分が誰かに向けるほどの大きな感情を自分に向けてくれる人なんていない」

と思って、一人で悲しんだり、時にはこうして、大事な人に自分の問題を投げつけてしまう。

 

そんな自分の悪性がわかった途端、申し訳なさと罪悪感に苛まれてしまったので、告解室に入る気分で友人にLINEを送り、この不安がどうおさまるか先行きも見えないからこそ、何らかのありがたいお言葉(アドバイス)をもらいたくて相談をした。

 

私の苦しみと似たような体験をしたことがあるというその友人からもらった言葉は、「なんで乗り越えられたのか今となっては不思議なんだけど」「完璧にそういう感情がなくなった」というものだった。

いわく、劇的なイベントがあるとか、そういったわかりやすいような物語があったわけではなく、でもただ毎日を過ごし、人と関わり合っているうちに段々とケアされて、不思議とそうした被害妄想や不安感情がなくなっていったという。

 

私がこの告解室に入った時は、「この不安はこんな感情が元となっているはずだから、ここをもっとこうしていけたらいいよね」みたいな、自分の問題を他者ゆえの視点で指摘・理解してもらって、自分の間違いを正していくための助言をもらう予想を何となくしていた。

でも、同じような問題を抱えたことがある友人から、「今は不安で、一生続くんじゃないかと思うだろうけど、絶対消えるから大丈夫」と言われて、「なんだ、生きるだけで解消されていくのか」と思えた。

生きることが苦しく辛いと思っていたのに、生きることが、今の苦しみの解消につながるんだと思うと、自らの生を楽しみにしたい気持ちが生まれた。

 

 

 

摂食障害や鬱が自分に棲みつくようになってから、「日常」や「普通」を喪失した気がした。

それからは、「自分」を取り戻すために、常に問題を反省しては問題の原因を突き詰めて、それなりの対策や問題解決手段が見えてきたらそれを実行することに奔走した。

そうできない時もあったけれど、大方そうやって、常に自己問題発見・課題解決には躍起になって取り組んできた。

それが、私の中の自罰的な習慣となった。

 

問題を見つけるために自分と向き合うこと自体はきっと自分に必要なことなのだろうと思うが、その自分の向き合い方も、「問題のある人間」として向き合ってきた。

他者を「問題のある人間」として接することはかなり危ういことなはずだが、平気でそれを自分にやってのけ、そしてそのさきは自分を追い込むように問題解決へと勤しむ。

そうしたマッチョな自己鍛錬をすることが善だと思っていた自分にとって、生きながらえればなんとかなる、ともとれるような友人の言葉に希望を感じた。

 

喪失は、せっせと埋めるものだと思っていた。

埋めるものが見つかれば、喪失はなかったことにできると信じていた。

それをただ見つめるまま過ぎ去ることができなかった。

 

ただ生きてるだけが希望になるなんて、考えられなかった。

どこかで、やっぱり頑張ったり人一倍の努力をしなければいけないと思っていた。

 

頑張りたいのに頑張れなくて問題を繰り返しては自己嫌悪を続けることにも疲れて、頑張る苦しさも抱え込みながら「頑張らなきゃ」「どうにかしなきゃ」と思う私に、友人は、生きつづけることの希望という希望を見せてくれた。

 

だから、今は生きようと思っている。

心の底から生きようと思う。

もっとちゃんと、愛と知恵を力にして自分と他者に向き合いたいから。

生きることでそれがもっと軽やかにできるようになるならば、生きたいと思う。

 

揺るがされることもあるだろうけど、それでも、自分にとって心地のよいかたちで、周りの人と一緒に生きようとする自分でいたい。

 

できる限り自分を生かして、苦しみを抱える私に、「大丈夫だよ」と言い続けたり人の力を借りて言ってもらって、大切な人たちへの愛を自覚しながらしっかり向き合えるといい。