就活体験記 Vol.0

就活を始めた。

 

進学したい思いの方が前々から強かったこともあり、これまで就活を意識したことも、就活の情報収集をまともにしたこともなかったが、経済的な理由と、自分の人生プランの再考の末、今は進学よりも働くことにシフトしてみようと考えるに至り、焦って就活の波に乗ろうとしている。

 

 

20歳が終わろうとしていた2017年の年始。

「あ、なんか今私勉強したいかも。で、そのためには大学行った方がいいかも」と急に思い立った。世間が受験期に差し迫っている時期だった。

今やれば間に合うかもしれない、という思いを持ったまま、ふらっと入った書店で占い特集がされている年始の女性誌コーナーの前に立った。

特にこだわりもなく最初に手に取ったのはVOGUEで、巻末にあったスーザン・ミラーの年間占いを読んだ。

すると、「今年は旅をするとき。昔の人にとって、旅というものは学びそのものでした」みたいなようなことが書かれていた。受験を決意した。

 

ただ、受験まであと1ヶ月半もないような状況だったから、「今から古文や社会や数学を勉強し直すことはできない、英語と現代日本語だけで受けられるところを探そう」と思って、それを実行した受験になった。

時々、どうして今の大学に入ったのか、と誰かが聞いてくれるたびに、「今の自分でも受けられるところがここだったし、受かったのがここだけだった」と言う。

 

就活を始めてみて、大学受験のことをよく思い出していた。

まだ20代のうちの人生で、もう大学に7年在籍していることになる。その間ずっと通い詰めていたわけでもないのだが、しかし人生の4分の1を大学生という身分でいる。

大学研究を学部の卒論テーマにも定めたほど、大学への愛憎がある。

大学が大好きで、大嫌いなときも多々あるが、それほどの思いがある大学という場に行くと決めた時は、ただ時間がなくて、先に述べたような理由が私の7年間を決めるきっかけになった。

 

 

私が就活をしようと思ったタイミングは、周りの学生よりも多分遅くて、同じ時期に就活をしている弟の様子も見ている分、その遅れはよく理解している。

それでも、大学受験の時よりは、時間をかけながら考え、決めていくことができるようにも思う。相対的に動き出しが遅いことも承知の上で、しかしあの時よりも時間はあるし、と自分を安心させるためにも受験期を思い出しているのだろうと思う。

 

 

私は何なら続けられそうか、どんな環境で何をしたいのか。

人生でやり遂げたいことを考えた時に、どんな場でどういう生き方をすることが様々な文脈に資するだろうか、それなりに考えながら、就活を実際に進めてみて、企業や職業や働き方を少しずつ知っていこうとしている。

 

今までは、単位を取ること、学びたいことを学ぶこと、今できる仕事をしてみること、研究をすること、好きな活動に従事することなど、今その瞬間でできること/したいこと/しなければならないことをただ見つめながらやるというだけにとどまっていたように思うが、就活を意識した瞬間、ほとんど必須で、もっと長いスパンでものを考えることになった。

 

人生を進めていく感覚になっている。

これまでが進めていなかったというわけでもないけれど、意志と計画と行動すべてが未来や人生を据えたものになってきたのは、これまでにない感覚のものだった。

 

私の手元に残る人間関係をおおまかに二分するとすれば、18歳までにできた関係と、18歳以降にできた関係だろう。

18歳までにできた関係のほとんどは同学年である。

その友人知人らの大多数が今どこかで働いている。社会人生活が大体5年以上になっている。社会では中堅に位置づけられる立場になってきた。

そしてその人たちの多くが就活を体験したのも過去見ていたから、私は皆の後追いをしながら、「みんなこんなふうに人生を進めていたのか」と感嘆しながら就職活動に勤しんでいる。

 

 

 

「そういえば、私就活始めたの」と、就活経験者の友人に話すことが増えた。

大学のゼミで出会った仲のいい3人グループで久しぶりに夕食を共にしている時に、近況報告をしながら。「だから色々どんな行程を踏んでいたのかとか改めて聞きたい」と伝えた。

どちらかというとポジティブでさっぱりした一人の友人が、「就活は本当にキツかった。孤独で、とにかく自分との闘いだった」と振り返る。もう一人も頷きながら聞いている。

 

そっか、こんなに多才で聡明で自信も適切に持っているような友人でも、そういう思いをしたんだ、と私も少しシリアスに表情を変えて聞いていると、「で、JALパイロットの選考も受けたよ!」と続ける。

もう一人の友人が「就活をキッザニアだと思ってた?」と茶化したことが妙に面白くて、キッザニアしたいとも思った。

 

 

実際に、就活というもののを始めたおかげで、前よりも社会との接点や見えていなかった視点が増えた。素直に楽しい。

キッザニアに行けたことがなかったのが幼少期のやり残したことの一つだったから、就活をしながらキッザニア体験ができるなら嬉しいとも思う。

 

 

今はまだ始めたばかりで、でも、その経緯は書き残したいと思った。

 

昨年読んで魂に残り続けている本の一つが、船曳建夫の『大学のエスノグラフィティ』だった。

大学で行われていること、大学教員が行っていること、大学の動向を具に一人称視点で書き残した本で、私はそれを読んだ時に「ああ、こうやって、やっていることやそこで行われていることをきちんと記録していくことは、例えデータにならずとも価値があると思っていいのだ」と安心を覚えたのだった。

 

だから私も、これからの残り少ない大学生活や学部で行われる研究(人文研究)の経緯だけでなく、就活という不思議な社会経験を書き残していこうと思った。

時間と労力をかけて、自分や社会を考える機会をもらっても、喉元過ぎれば色々なことを忘れてしまいそうで、それが嫌だとも思うし、なんとなく行ってしまいそうな一つひとつが何を意味しているのか、こぼさないようにしてみたいと感じたからである。

 

 

3月から解禁、というイメージがあった就活。

夏に唯一行った、ある企業の会社説明会に参加したおかげで、その会社の新卒採用部署から送られたメールで、早期選考というものがあると知った。

いや、知っていたのだけど、もう秋くらいにそういうのを終えた人は、3月からしかないと思っていたのだ。

そのレベルで何も知らなかったからこそ、そのメールをきっかけになんとなく12月くらいから「企業の選考マイページに登録してみよう」と数社登録し始めたら、1月にも選考が始まるなどと知った。

今は慌てて人やAIの力を借りながらESを書いたりポートフォリオを作ってみたりしている。Webテストも一つ受けた。

エントリーの締め切りが迫っているものも多い。レポートや試験があるのに!と思いながら、必死で食らいついてみている。

 

こんなブログを書く暇があったら少しでもリサーチとESに取り組んだ方がいいくらい焦ってもいる。

だけど、これはこれで楽しくて、今後どうなるのかも楽しみで、私は就活を経てどうなっているのか、数ヶ月後の自分に答え合わせをされたい。

ということで、これから、今後の動向を少しずつ書きまとめることにした。

 

これでも今は思いだけしか書いていないので、12月の終わりから実際に何をしているのか、それをVol.1にして、次を書こう。ひとまず、今学期のレポートが終わったら。

密度の濃い軽さ

人生で初めてフルタイムで働いた先は広告の制作会社で、私はその時20歳だった。

中学3年生の頃から広告業界に憧れていたので、制作会社が何をするところかも知らずに入ってみて、私の思い描いていた「広告」業界の給料とは反対に、当時の東京都の最低賃金での雇用だったけど、広告ならなんでもいいと思っていた。

怖いもの知らずでアルバイトとして入ってみて、「いくつなの?」と周りの先輩方や仕事先の関係者の方に聞かれるたびに、「20です」と答えると「ハタチ!?!?」とよく驚かれた。

大卒入社の人が多いこともあり、あるいはそれなりのプロたちと関わる機会が多い仕事環境でもあったため、確かにあれから7年が経った今考えれば、二十歳の人間がいると聞けば私も同じような反応をしてしまうと思う。

 

同じ反応をもらうことが複数回重なると、「私まだまだどこいっても年下側だなあ」と思わざるを得なかった。

その当時は、周りがまだ大学に通っている人も多い中でフルタイムで働いているという事実にちょっとだけ縋りたくて、私はちょっと大人になったと思っていたし、でも、誰からも「すごく若い子」という扱いを受けるから、社会人としてのプライドを持てるだけの他者評価は追いついていなかった。

 

 

激務もあって、今よりもっと心身が弱かった私は半年でリズムを崩し、それでも周りが自分以上の激務で仕事をしていたからこそ、「私はできなかった」という後悔を持ったまま退社した。

けれど、あそこにいたこと自体は後悔はしていなくて、むしろ二十歳の自分があの場にいたことは刺激が強く、私が大学進学を決める大きなきっかけとなってくれた。

 

 

大学に入ろうと決めたのは21歳の頃で、それからもう6年が経った。

私は今でも大学にいる。

 

周りの友人や大人が「一年はあっという間だ」とこぼすたびに、同調しておきながら、私はいつまで経っても、時が過ぎるのが長過ぎると思っている。

早く大学卒業したい、早く授業期間が終わってほしいと、常に願っているからか、この6年を「はやかった」と心から思える時などなかった。

時が過ぎるのが早い、あっという間だと感じられるのは、それだけ、慣れていることを日々やれていたり、安定がある程度あるからなように思ってしまう。

早く社会に、人生に慣れて、時が早いと言いたい。

もちろん、高校卒業してもうすぐ10年になるとか、私の好きな芸人さんが「8月過ぎたら大晦日」と言っていることに共感したりとか、その時その時で、「気づいたらもうこんなところまで来ていたのか」と思うことはあるから、時が早いなどと思わないということではない。

ただ、長いなと思う。

いつまで経っても進んでいる感じがしなくて、1週間に2,3日は焦りに駆られる。

 

 

そんな私でさえ、6年も大学にいれば、私があの時「ハタチ」であることに驚かれたよりも年下の人に出会う機会もあって、27の自分が時には18歳と接すると思うと、「こんなやつと出会わせてごめんね」と思わずにいられなくなる時もある。

2年くらい前までは、大学にいる人たちにそこまで思わなかった「若い」という感覚を、今年は大学にいてよく感じる。

現役ストレートで4年生の、22歳くらいの人でさえ新入生を見て「若い」としきりにいうのだから、まあそう思うくらいはいいか、と自分を保っている。

 

 

そういうわけで、徐々に、自分の立場が、その環境の中で圧倒的に年下であることが多かったのが、大学内においては、そうでもなくなって、むしろ上側になっていった。

大学内で歳上側になることはあまり褒められたことではないのでそのこと自体は恥ずかしいし、なんでもないのだけれど、どこにいっても年下、というポジションは、心配しなくても徐々に変化するのだな、と時を経たからこそ学習もしている。

 

 

 

先日、学外のある研究会に参加した。

懇親会で、80近い研究者の方に「あなたは可能性の塊だよ。本当になんでもできる。私なんて、棺桶に片足突っ込んでいるようなものだからね」と言われて、つい笑ってしまった。

笑ってしまったのは、「この『私なんて』に勝てる言葉はないな」と思ったからだった。

 

私もよく、「私なんて」と言ってしまいがちだが、レベルの違う「私なんて」を言われて、「私も、こういうこと言う歳にいなるまでは『私なんて』と言うのをやめよう」と決めた。

 

 

 

「私なんて」とよく思いがちであることはいいことではないとそろそろ思う。

この前、中高時代からの友人二人とあって、三人でクリスマスパーティのことを計画しながら夕食を食べていた時のこと。

 

私が入学したその日に隣の席に座っていた、部活も同じで笑い合う日々を長く過ごした一人の友人が「あなたは気を遣いすぎだ」と言ってくれた。

まあそのこと自体はこれまでも誰かに言われたことがあったから、いつも通り「ああまた言われちゃった」と思おうとしたが、そのあと、「気を遣いすぎて、今日のごはん来ないのかなって思っちゃってたよ」と言われた。

 

この三人で集まるのは何も久しぶりではなく、3週間前にも彼女らと集まっていたから、私としてはしょっちゅう会えるくらいの仲でもあると思っていたが、そんな間柄にもそう思われているのか、と一瞬言葉を失ってしまった。

 

 

私たちは今年のクリスマスパーティでプレゼント交換をすることにしていて、そのプレゼントをどう決め合うか、を話している時に、「あなたはストライクゾーンが広そうというか、これは絶対に合わないとか嫌いそうってことがそんなになさそうで、プレゼントを選びづらい、思いつきづらい」と言われた。

 

その延長線上に、「いいことだけど、そうやって幅が広いから、交友関係も同じで、あなたは交友関係もいろいろあるけど自分から求めないイメージがある。でも、あなたから求めないということは、それはつまり自分は必要とされていないと思ってしまうことがある」「あなたは人をもっと頼るべきだ」というようなことを付け加えられた。

 

 

私は常に人を求めている人間だと自己認識していたけど、私にとって結構大事な友人にそう思われていたと知ってかなり驚いてしまった。

そうか、私からあんまり強く主張しないせいで、私はすごく大事なのに、大事だと思われていないと思うことなんてあるんだ、と思った。

 

恋愛関係になると、なるべく相手に好きとか行動で愛を示したいと心では思っているしそうしようと行動できる気がしていたけど、まさか友人にそれが伝わっていないとわかって、これじゃダメだ、と思い直した。

 

求めて断られたり、求めてもうまくいかなかった時の方が、求めないでつらいままでいるより自分にとっては苦痛な気がして、それを避けていたんだと改めて思った。

これ、数ヶ月前に恋人と別れた時に「あなたは傷つくことを恐れて現実を見ていない」というようなことを言われたことと同じだろうなと思い、あれがすごく心に残った意識でいたものの、全然変わってない自分に気づいた。

 

私なんかに時間作ってくれて本当にありがとうとは当然思うし、私なんかが何を求めていいのかわからない、という意識を持ちすぎて、気づいたら、相手も私からの愛を感じられないようになっているなら、それはすごく悲しいことだと感じる。

 

だから、友人に、「そんなことないけど、そう思わせたくてそうしているわけじゃないから、どうしたらうまく人頼れるか教えてほしい」と助言を乞うた。

人を頼るということは、昔より上手くやれているつもりだったけど、大事な友人にそう思われていないなら、それはできていないのだろう。

 

そういえば、別の中高時代からの友人にこの前会った時、「あなたの乗る路線の改札まで送るよ」と言われて、即座に「いいよやめてよ!私の改札の方が遠いんだし!」と伝えた時、ちょっと怒られた。「なんでそんなこと言うの?送らせてって言ったんだからそれに乗ればいいのに!否定すんなよ!」と言われたのだった。

こういう扱いを受けて、あとで「やっぱり付き合うの疲れた」と思われて迷惑になったり負担かけるくらいなら否定して何もされないで当たり障りないまま付き合っていたいと思うのは自分都合なことなのだと今更ちょっとだけわかってきた。

 

もっと、こうしてほしいとか、こういうことのために会いたい、会ってほしいと言っていいし、会う時にこうしてほしいとかそうしていいのだと具体的なアドバイスを受け、「もっと心に別の人間を住まわせて、自分の選択ではしなさそうなことをして、うまくいかなければ勝手にその人を住まわせてそいつがやったってことにしてもいいんだ」とさえ言ってくれた。

私はそうしている時があるよ、と二人とも言うから、その心がけを学んでみたくなった。

 

そう考えると、ちょっと楽になって、別の友人たちに、「会いたい」とか、「まだ返事とかちゃんとできていなんだけど体調良くなったらちゃんとするね」とか、「出社のタイミング合う時一緒にランチしてほしい」とか、「相談したい」とか、そういうことを伝えることがここ数日できたのだった。

すると意外にも相手からは悪い反応がなくて、むしろ会いに行くよとか、ちょっとドライブするのでもいいねとか、年末の予定わかったら連絡するねとか、そういう返事をもらって、そのことにも驚きつつある。

 

頼るとか甘えるとか、もっと意気込んでやっていたが故に「やるときはやっている」つもりになっていたが、私に必要なのはもっと軽い甘えだったような気がしてきた。

 

 

 

 

 

 

可能性の塊だよ、と言ってくれたあの人は、半世紀以上この研究会に参加していると言っていた。

 

別の研究者の方は、シンポジウム後の質疑応答の時、「年金生活者の〇〇です」という自己紹介をしてから質問をしていて、その方なんて、その分野を研究したいと最近思うようになった私でさえ論文を読んだことがあったので、「こんなすごい人がこんな軽口叩くんだ」ということにも驚いたり笑ってしまった。

 

そしてまた別の方は、私に、「こういう学会や研究会でたくさん遊んでね。たくさん遊ぶためには、発表すればいい。発表したら遊べるようになるよ」とプレッシャーにならないような形で声をかけてくれた。

 

 

 

朗らかで軽いユーモアが自然と出てくるような大人に出会うと、私がこうなりたいのなら、もっと軽く甘えて軽い頼り方をしていくことからだなと思う。

 

二十歳のあの時よりは、もう少しいろんなことを経験したし学んだし考えてきたつもりだったけど、まだまだ、学ばせてくれる人が周りにたくさんいる。

いつまでも、私の幸せを願いながら私の未熟さを指摘してくれる友人がいることが本当にありがたい。

たくさん吸収できる立場でい続けたい。

そのためにも、私はあなたの力が必要ですと素直に言える大人でい続けられる努力をしていきたい。

2023年の最後の方にわかった自分の不足点を、少しでも納得いく形で行動できるようになったと、一年後には自信が持てるようになればいい。

 

 

そうなれるように

1週間半前に恋人と別れたばかりだけど、そのちょっと前に、恋は終わっていなかったけれど、大きな失恋のような体験をした。

 

傷つきが大きい出来事が9月の頭くらいにあって、なんだかうまくものを考えられなくなって、その後は数日、食べられる食事の量がめっきり減った。

「あれ、それだけ?」と言われることがある時には、「夏バテで」と答えていたし、たぶんそれも嘘ではなかった。

 

最近、ある人が「失恋でごはんが食べられなくなることを知った」と言っていたのを聞いて、「そういえば、9月のはじめに私が食べられなくなったあれも、今思えば失恋のようなものだったのかもしれない」と数日前にふと思った。

 

今では食事量は段々と戻ってきて、普通に生活できるようにもなったが、代謝がガクッと落ちた感覚がした。

まだ寒くなりきっていないのに、疲れやすく、眠りが浅いとこれまで以上に頭と身体が動かないので焦っている。

心では「走りたい」「運動したい」と思っているのに、身体がいうことを聞かず、毎日帰ると疲れ果てて、何もしたくなくなってしまう。

 

 

これはまだ冬季うつとかじゃなくて、ちょっと頑張りすぎた夏までの疲れが現れただけ、と自らを奮い立たせてみる。

寒くなるのは怖い。

 

だけど一方で、10月になってよかったとも思う。

 

月が新しくなるということだけで救われるものがある。

 

 

通学がきついと周囲にもらしていた大学にも、早く通いたいと思う自分がいる。

どうせ秋が深まれば、「もう行きたくない、疲れた」などとこぼすのだろうが、この1週間は、早く行きたい、早く大学が始まりますようにと願っている。

 

そこには変わらない関係性があるからかもしれない。

そこに行けば、変わらないでいてくれる人がいる。

その人自体がではなく、私との関係において変わらないでいてくれる人がいる。

 

はやくその人に会いたい。

その人に会えれば、ひと目見れば、私はたぶん、ほっと落ち着ける気がする。

その人と、そこで会うことで、消えたエネルギーがちょっと戻ってくる気がする。

その人が何かをしてくれるわけではないが、ただひと目見たら落ち着けるような気がするのだ。

 

 

それまでにあと2回も夜を越えなければいけない。

待ち焦がれている1回目の夜は、昼のうちに職場の人にちょうどもらっていた、「ぐっすり眠るためのお茶」を飲むことにした。

最近、悪夢ばかり見ていたが、このお茶は甘い夢を運んでくれると、あるショップの商品紹介に書かれていたから期待している。

 

早く時間が流れてほしいと願ってもそうなるものではないのがつらいけれど、早く過ぎ去れと思う日を過ごしているうちに、気づいたら今が過去になっているのを今は経験則で知っているから、たぶんあと2週間くらいはつらい気持ちが続くような気がしつつ、なんとか日々をやり過ごせることを祈る。

 

そういえば、大きなショックがあった9月のはじめあたりに、muuteというジャーナルアプリを始めた。

無料体験の2週間だけやってみるか、というつもりが、なんだかんだ、自分のためだけに自分のことを書く、というのがよくて課金することにして、1ヶ月ほど続いている。

否が応でもやることが増える今週の木曜日からも、この習慣がそのまま続くかはわからないけれど、自分のためになることを少しでも続けて冬を待ち構えられるといい。

 

 

 

そういえば、中高時代の同級生が、私が大学に通うことを「また遠くに行くの?」と言うのがなんだか素敵だった。

私も、「うん、秋もまた遠くに行くよ」と答えた。

ずいぶん遠くまで

秋風を感じながら、仕事を終えて会社から出た時、自分の心がとても穏やかであることを知った。

自分のことを好きでいる、というのはこういう状態のことを言うのではないかと思ったのだ。

 

退勤前、ちょっとなんとかしたいと思いながらバタついてうまく進まなかった仕事を無事ひと段落つけることができ、上司に確認もしてもらったら、それなりに悪くない反応ももらった。

ずっと焦っていたことに区切りがついたから、それも誰かから評価ももらえたのだから、いい心持ちになりやすいのは間違いなかった。

それに、まだ秋学期は始まっていないことも理由だろう。

10月からは今の仕事量に加えて週3日で通学と勉学、研究が始まるのだから、今こうして穏やかなのはまさに今だからだということもわかる。

今日は会社で、まだ知り合ったことのない人と知り合えたというのもある。

 

たくさんの「今日だから」「この瞬間だから」が寄り集まった穏やかさが生まれているのだということ、これが一時的なもので、またすぐ、こんな余裕はなくなるのだということをわかりながら、この気持ちに精一杯寄り添って、浸りたいと思った。

 

 

 

 

この2年、沖縄に行く機会が複数回あった。

研究や仕事、そして勉強を兼ねて訪れていた。

 

そのぶん、なかなかゆっくりとする時間を持てはしなくて、どこに行くにも「勉強!」という意識があったからか、それなりの自由時間があったとしても、どこかで気を張って沖縄にいた。

この週末に、この2年ではじめて仕事や研究に関係のない、旅行をした。

沖縄が背負わされた負を知れば知るほど、ここにいることを楽しんではいけないような気さえしていた。

それでも、旅行をした。

付き合っていた人とともに行くことを決めたからだった。

 

相手が、私が研究で行っている沖縄に、夏に一緒に行こうと言ってくれたことで決まった旅行だった。

 

とんでもなく久しぶりに沖縄を旅行先にして、行く前に、「ゆったり時間を過ごすために行きたい場所を全然知らないな」と実感した。

それでも、この2年、私が沖縄に行くといつも気にかけてくれる人がいたり、いろいろなところに連れて行ってくれたり、沖縄の人や土地や食べ物や文化や言葉を教えてくれる人たちと出会っていた私は、できる限り、一緒に行く恋人にも「今の私がいいと思っている場所」を紹介したいと思った。

相手に知ってほしいお店くらいはなんとなく定めたり、お世話になっている人たちに「海について教えてほしい」と聞いたりして、それとなく旅行の計画をした。

 

旅行の計画としてはきっと悪くはなかっただろうが、悪かったのはともに旅行をする恋人との関係だった。

 

旅行前から、喧嘩ばかりが増えて、共にいる時間に不穏な空気が漂うことが多かったわたしたちだったから、この沖縄の旅行も、3ヶ月も前から決まっていたというのに、きっと互いに、「やっぱりやめようかな」と思っていただろう。

 

でも、それを心から言い出す勇気がたぶんどちらにもなくて、空港に向かった。

どちらもわだかまりを抱えながら、やめにすることはしなかった。

 

宿について、つまらない喧嘩がまた始まって、そのあと、恋人からこの関係を終わりにしたいという話をされた。

当然だと思ったし、異論もなかった。

でも、そうやって相手に言われると、すぐにその言葉を受け入れられる余剰がなくて、冷静さを欠いて「じゃあ、明日から別行動ね」なんて、思ってもないことを言ってしまう。

そんな自分が嫌だった。最後まで嫌な自分だと思った。

 

でも、幸か不幸か、別れ話をしたのは1日目で、旅行はあと約3日も残っている。

別れるとしても、最後の3日を最悪な時間にしたくなかったし、私にとっては思い入れも強く、大好きな沖縄を悲しい思い出が残る場所にはしたくなかった。

そしてそれは向こうも同じように感じていたようで、「ちゃんと話そう」と決め、それからはずっと、車の中でだったり、宿などで話をし、元々の旅行の計画はそれなりに遂行した。

 

相手が抱く、私の嫌なところ、私にされて悲しかったことは、全部相手の言う通りに正しくて、私の非だと思った。

 

旅行中のある時、「私、あなたの言う通り、傷つくのが怖くて、恐れるあまりに、自分から壊してしまうんだけど、それ、今後どうしたらいいかな」と人生相談をふっかけたら、「あなたはずっと、実現しない理想を見て、相手や現実を見ていないんだ」と指摘された。

形而上的な理想を見ながら相手や今立ち現れている現象を見て、そうした理想なしに現実を見ることができていないのだという。横並びに人や物を見ない、と。

研究や勉強の志向にもそういうところが表れている、と言われ、なんだか自分が間違いだと言われているような気がしてしまって、ちょっとはムッとしたが、考えてみればその通りでしかなかった。

 

別れを切り出されてから気づくなんて遅すぎるにもほどがあると思うが、確かに私は相手をまったく見ていなかった自覚がある。

何か別のものを通さないと、相手を見ようともしていなかっただろう。

それが相手は苦しくて、その結果、私も苦しくて、喧嘩ばかり引き起こしたのだな、と理解した。

 

旅行の最初に別れ話を切り出された時は、「気持ちはわかるけど今言うなよ」と思ってしまったところも本音ではあるが、しかしタイミングとしては最善だったように思う。

過ちに気づいて、1人で後悔や反省をするだけではなく、その後、なるべく相手をきちんと見る努力を、理想を抜いた相手と向き合う努力を、最後にできる時間があった。

付き合ってから数ヶ月がたってはじめて、相手を心から知ろうと思える時間ができた。

 

 

たくさんの話をして、私たちの考えを互いに交換しあった3日目の夜、私の母親の話になった。

「あなたは色々言うけど、あなたの親はすごく愛があったと思う」と言われた。

 

「あなたの母親は、自分がつらい環境に立たされながらも、3人いる子どもたちはそれなりに立派になってる。

あなたも自分でつまづいてしまった部分はあるだろうけど、いい教育の環境を用意してもらってきた。

自分ができないことを、教育によって補完しようとしてくれていた。

俺が同じ状況でも絶対にできない。あなたは愛されていたんだよ」

と運転中の彼が言う。

 

助手席に座り続けながら、どうしようもなく彼の手を握りたくなった。

付き合った人で、私の母をそうやって言ってくれた人は初めてだった。

そして、これも恋人の言う通りだと私は思うのだった。

 

母娘の私たちは直接のコミュニケーションをとる時間は本当に少なかったし、恨みを抱くようなことだって当然ある。これは絶対にしてはいけないだろう、と思うようなことだってあった。

でも、本質的には、母だって余裕がなくてそうなってしまっているのはずっとどこかでわかっていたから、母を憎みきれない気持ちがずっとあること、そして、感情的に満たされなかったり苦しい思いをさせられても、常に恵まれた環境を用意してもらったことに引き裂かれる思いがあった。

生きてきた27年間ほとんど、それらの思いや感情をすべて自分で引き受けることができなかった。

 

 

悲しい思いに関してはなくなったわけでも忘れる決意をしたわけでもないものの、さまざまな状況や経験、人との出会いを通して、少しずつ母に対する憎悪の感情が融解してきている今のタイミングで、自分を近くで見ていた人が、私の母に対する愛を説いてくれた。

私は、「直接見える愛」にばかり固執していたから、彼の言うような愛に気づこうともしなかった。

 

 

 

私を愛してくれた人、気にかけてくれた人がたくさんいたことにもっと自覚的であろうと思ったのは、人との出会いによるものだった。

なんだか最近、本当にこんなことがあっていいのだろうか、と思うような出会いに恵まれているように思う。

 

自分が「素敵だ」「好きだ」と思う人たちと、程度はどうであれ同じように思ってくれる人と出会うことを繰り返していると、だんだんと、私を形成してくれた人や環境、ものを思わずにはいられなかった。

 

私はこれまで、私を嫌い、私を罰しようと思いすぎたせいか、自分を形作ってくれたものを悉く無視して、常に「自分の思いたいこと」を優先させてきた。

愛に気づかないというのは、自罰的であるが故に自分勝手であるということで、それは誰にとっても善たり得ないことをわかっていなくて、それをわからせてくれたのは、今「大好き」だと言える仕事に出会えたり、私以上に常に私に愛の言葉をかけてくれる人たちとの出会いや関係が積み重なったからだったと思う。

そして、それを理解する過程に、ともに沖縄に行った恋人の存在がいた。

 

 

 

 

私には今、目標がある。

親が、特に母親が、抑圧され続けたその悲しみをすべて私たちが背負わないために身を粉にして与えてくれた環境を無駄にすることなく、今通う大学を卒業し、今やれている大好きな仕事に邁進し続けることである。

自らでお金を稼ぎ、教育や生活のためにしてきた友人・知人への借金を返し、自分が生活する家をどこかに買う。

 

夢というよりも復讐に近い希望でもあった、家庭を持つことは今の自分にとってはそう大きな夢ではなくなった。

何よりも、自分が自分であること、自分に関わってくれた人、自分を愛してくれた人に対して恥ずかしくない自分でいられる努力をして、その自分を誇れるようになりたい。

 

家庭を持つこと、特に子どもを産むなどの選択で、これまで挙げた目標や思いが、中途半端になってしまうことを今は望みたくない。

状況が変われば、この思いも変わることがあるだろうが、結婚願望や、妊娠でも養子でも子どもを持つことになったら教育をどうしようか、などと今ない未来を妄想しがちだった自分が、その思いを手放せるようになったのは、現実に基づいた私をもっと認識したくなったからだと思う。

 

その目標がしっかりと自分の心に立ったのは、間違いなく、この沖縄旅行だった。

それも、誰かが「自分にはできない」と言うほどの愛を親にかけてもらったのだと言ってくれたからだった。

 

 

 

 

こんなにも自分を必要以上に罰さないでいられるのは、あるいは違う言葉で言うのならば、自分を受け入れているというのは、これほど心地がいいものなのだと、2023年の9月26日に思えた。

私はとんでもない罪を犯してきただろうし、過ちもたくさんある。

ほとんど修復されることのない兄との関係がその事実を物語っている。

それらが帳消しになるとか、そんなふうに思っているわけではない。

ただ、今まで私を存在させてくれた、見えない愛を受け入れたいという思いが、「私は今の私が好きだ」と思うきっかけになってくれた。

「自分を好き」なんて言える日が来るのか懐疑的であり、かつそんなことを思う自分を見ることに怯えていた私が、自分を好きだと思えたのは、受けた愛をなかったことにしたくないからだった。

 

 

「こんな人になりたい」「この人からもっと学びたい」と思わせてくれる人生の先輩が、今はこれまでの人生のいつよりもたくさんいて、そういう人の近くにいるだけで、エネルギーが湧いてくる。

そういう人たちを知っているから、「私は大丈夫、どうにかなる」と思えるようになってきた。

そして、そういう人たちに出会えるきっかけを間接的にでも直接的にでも作ってくれたのは、間違いなく私の親だった。

だから、どの出会いも、どの思いも、得られる力も、きちんと大切にしたい。

 

とんでもなくパワフルで、本当は愛情深い、行動派な母親に、心から「ありがとう」と言える自分になるために、そういう母親の素敵な部分こそ「似てるね」と誰かから言ってもらえるように。

たぶん、そう思える余裕がない時もたくさんあると思うけれど、今日ほど、自分の心を痛めつけずにいられたのはこれまでの人生でなかったから、この気持ちを知っている自分がいることをいつでも思い出したい。

 

 

今日は、絶縁した兄に子どもが生まれたそうだ。

 

そして同時に、今日は離れたところにいる親友の誕生日だった。

お誕生日おめでとう。

いつも私を応援してくれて、味方でいてくれて、自信を持っていいんだとずっと伝えてくれるあなたにも、この思いが届きますように。

めっちゃいいシートマスクで保湿する

知人からシートマスクをもらった。

いまだに、めちゃくちゃいい美容法などがよくわからないでいる。

どの化粧水や美容液がいいのかわからない。

高いやつは大抵いいんだろうけどそんなのポッと出せる経済力もない。

そんな私でも、お風呂上がりに化粧水を塗って、その後にシートマスクをベタッと貼ってからクリームを塗れば、「なんかいい」くらいは感じることができる。

シートマスクがあれば、化粧水やクリームは高くなくても多分今のところ大丈夫。

 

なので、シートマスクをもらうのは正直とってもありがたいのだが、知人にもらったそれは、「なんかめっちゃいい」ものだった。

 

あまり意識することなく、「今日はもらったやつ使おう」と手にとって封を開ける。

シートに厚みがあって、シートから溢れる美容液にはとろみがある。

明らかにいいやつ。

「え、なんかすごいやつだ」と声を出しながら少し興奮気味でシートを広げて顔に貼りつける。

 

「なんかめっちゃいい」シートマスクを顔にのせるだけで、「なんかめっちゃいい」ことをしている気分になった。

「『なんかめっちゃいい』んじゃん!?私!!」と思えた。

 

で、腑に落ちた。

私が自分にやってあげたかったことというか、思ってほしいことってこれだったな、と思う。こういうことなんだよな、と思う。

ああ、こういうこと増やしてあげられたらな、と自分に思う。

自分にちょっといいものを与えてあげる。自分がちょっといいなと思う人に会わせてあげる。

そろそろ私は私にもっといい勘違いしてほしい。

その気分を自分が感じてほしいと素直に思えるようになってきた、ということな気がする。

 

 

そんなの当たり前のようで、全然わからなかった。わかれない条件もずっとあった。

今はすこーしだけ、本当にすこしだけ、前よりわかる気がする。

労りとか慈しみみたいな感情がちょっとずつ生まれてきている。

いろんないいものに出会えて、いろんないい言葉やいろんないい人や、いい言動に出会った結果で、ようやくそういう道が舗装されたんだろう。

 

 

私は、人に期待をしないとか、人に幸不幸を委ねないという言葉に対してもう白旗をあげる。

はじめは委ねてなくても、期待してなくても、人との間に生まれた刺激によく反応してしまう。結果的にそういうものを求めてしまう。

誰かと一緒に幸せになりたいし、誰かの幸せの中にいることが幸せにつながるし、「私をどうにかしてほしい」と全部委ねることはしたくないにしても、そうなってしまっていることはあるだろうという意味で、そういう言葉に心から便乗できない。

つまり結果的にそんなふうに自分を割り切ろうとは今はできない。今は。

でもこういう性質だと揺らぎも多くて、それを誰かに嫌がられたり面倒がられたりするし、申し訳ないんだけど、起きてしまう揺らぎがあるときは、とにかく自分にいいものを与えて乗り越えたい。

100円のシートマスクより、300円のシートマスクを買う。

 

 

もうすぐ秋が始まる。

私のいう「秋」とは、「新しい学期」と同義で、大学生になってからの秋は、大抵うまくいかないものである。

毎日300円のシートマスクを貼ろうとすればお財布が息切れをおこして、私の心も苦しくなるので、時々、なんかきついなって時だけ、300円のシートマスクを貼る。

 

 

そういうことを積み重ねて、「いやー、めっちゃいいじゃん私!」って30歳になるまでにもっと思っていたい。

30になったとき、「ようやく本当に私の人生が始まる!」って思えるような自分にするのが今の夢。

あと2年半でそういう自分になっていくのが今の夢。

 

だから今日のシートマスクの感動をちゃんと覚えておきたい。

喉元過ぎれば熱さ忘れてしまうから。

壊れる前に

今につながっている、自分史の中で外せないある経過点について、最近出会ったばかりのある人に自己紹介がてら話していたら、もう何度も人に話してきて伝えなれていたと思っていた過去のことに、まだ自分が過敏に反応するのだなと気付かされる。

もうとっくに話し慣れたと思っていたのに、今も泣きそうになるんだ、と思った。

乗り越えるための語りを形成したことで、見過ごしていた感情や深掘りしなかった事実がまだあったのか、とわかった。

 

 

私が、過去の自分に言いたいことがあるとするならば、「とにかく寝ろ」ということと、「人を頼れ、壊れる前に甘えてくれ」ということだと思う。

求められることなんてそうそうないけど、もしも自分が自分より歳がしたのひとに助言なんて求められたら、大体これと同じようなことを言う。

でまあこういうことを言うと、大抵「なんだそんなこと」と相手が反応しづらい様子を見せることもわかってきた。

後者の方は、いってもわかることじゃないから、過去の自分にもしも今会えるなら、言うというよりもとにかくただ抱きしめて、言葉をききとるために一緒にいておしゃべりをしたいと思う。

自分の「普通」が失われてはじめて、壊れてからでは遅いと知ったし、それを知った時にはもう手遅れだった。

いまだに普通が取り戻せない。

 

 

最初の留学から、はじめて帰国した時のこと。

親に怒られるだろう、友達にも失望されるかもしれない、この決断を取ることによって、人生がものすごく険しいものになってしまうかもしれない、ということは、わかっているつもりだった。

それでも、あの時の自分は留学から離脱することしか考えられなかった。

友達や家族を失っても、自分の心身が、前の「普通」に戻ることの方が価値があると信じてしまった。

まだまだ分別がついていない年頃だったし、今よりもっと短絡的にしか物事を考えられなかった。病気のことになるとより一層そうなってしまう。

 

自分の生きている現実の世界がどんなものかをきちんと認識していなかったせいもあり、失うものがどんなに多くても、自分が元気になればまたきっとやり直せると信じ、「治療したい」という一心で、ひっそりと帰国した。

「治療」がどんなものか、何をしたら治療になるのかもわからなかったけど、この状態が少しでも変わって、「昔のように」なれるのならばなんでもいいと思ったし、言語が違う環境ではそれはますます難しいだろうからと、帰ればなんとかなるのでは、という期待をしていた。

 

ひっそりと帰国しても、どうせ親に怒られるのはわかっていたから、ちょっとでもその怒りに触れる時期を伸ばしたくて、1ヶ月だけあるところに居候させてもらったこともある。

でも、ただ休んでそこに居させてもらうのは居た堪れなくて、すぐに人のツテでコンビニのアルバイトを始めた。

 

無断でした帰国と居候がバレて、家に帰る。

覚悟していたはずなのに、想像以上に冷えた視線が向けられることに耐えられなかった。

予想を超える軋轢が家族と生まれてしまって、家族の誰も、味方になってくれなかったことに悲しくもなったし、きっとそうやって悲しんではいけないような、被害者意識を持ってはいけないような、それほどまでのことを私はしたのだという自分への失望も、家族からのまなざしを通して覚えた。

本当は、帰国してゆっくりやすみながら、今考えればまだ始まって間もなかった、一年経たずの闘病生活を癒すつもりでいたのに、家族から向けられた視線に逃走と闘争を重ねてしまい、売り言葉に買い言葉のような形で家を飛び出した。

家を出たら、働いてなんとか生きるしかないわけで、やすんだりゆっくりするという、思い描いていた「治療」は遠ざかったわけで、結局、あの時求めていたことを一度も実現できぬまま、あれから7年以上が経つ。

 

そうだ、私、やすんで、治療したくて帰国したのに、一度もそれができなかったな、と人に自分の一部を話しながら思った。

そうしたら、きっと蓋をしていた「苦しい、もうやめたい」という感情にまた気づき、「もう語り尽くした」と自ら思っていたストーリーによって勝手に抉られてしまった。

 

だからと言って、今やっていることをすべてやめたいとか、そんなことは思っていない。

走り出し、今自ら意識的に続けていることは、どれも間違いなくそのまま続けたいし、頑張りたいことでもある。

これは多分、せめて、家族が恥ずかしがらないでいてもらえる存在でいたいから。

もう修復できない関係はあるけど、これ以上嫌われたくないし、嫌われたままでいいけど、これ以上恥だと思われるのは私がつらいから、そのためなら、今は、休んでゆっくりするよりも、いろんなことを頑張れる気がするし、頑張らないといけない気もして、だからちゃんと自分の意志と選択で、頑張ることにした。

前より、甘ったれたことをいっていないと最近の自分を見て思う。

 

でも、あの時実現させたかったことが実現できずに、結局動き続けて、闘病も続き、そう簡単には「治療に専念」などできないことだけはわかったことが、その了解が、今になってもしんどいなと、不意に感じる時がある。

治療に専念したい、何もしないでちょっとゆっくりしたいと思う気持ちを、誰よりも自分が「甘ったれたこと」と認識してしまったせいなのだけど。でもきっと実際にそれをしたのは、家族に見捨てられないためだったのだろうけど。

 

お金なのか、人間関係なのか、地位や名誉なのか、物理的な安全地帯なのか、どこでもいいけど、きっとどこかに大きく安心ができないと、治療なんてそう簡単にはいかない。

精神疾患ってその人にとっての安心がある程度満たされないと改善に向かわないし、別に精神疾患なんてなくても人は生きているといろんなことが急に降りかかってきて、大変なことばかりで、みんなきっと、苦しいことや満たされなさをたくさん抱えて、それでも大したことないふりをして生きているんだろう。

大したことないふりなんてせずとも、もしもそんなことさえ思わずに生きていられているのならば、それはなんと素晴らしいことだろうと思う。

失敗や挫折はした方がいいという人もいるだろうけど、人間、どこで壊れるかなんてわからないものだから、壊れるくらいならない方がいいのだと私は思う。

 

「挫折したことある?」という質問を投げかけられて、「挫折…?」と首を傾げて考え込んだ元恋人や、「自分は挫折や失敗をしたことがない、そうなることを避けるために考えるしそうならない行動をするから」と言える親友を思い浮かべ、ちょっと羨ましくなる気持ち以上に、「ずっとこの人たちが、このままでいられますように、ずっと無風でいられますように」と願わずにはいられない。

 

 

今日、一緒にごはんを食べた会社の人に、「一緒に誰かと生活したいという気持ちが強いです。というか、誰かと一緒にごはんを食べる時間が大事で」といったら、「ゆきちゃんは、ごはんメイトがほしいんだね」と言われた。

そうそう、私の求める「結婚」って、「おしゃべりできるごはんメイトがいる生活」みたいなもんだな、と思った。

 

そんな話をしたあと、一人になって、そういう、心から求めている基盤がない今の生活がまた苦しくなる。

電車の窓にうつる自分を見ながら、「はやく安心したいね」と心で語りかけた。

「安心できないと、好きだったはずの本も漫画も読めないし、でも安心できたら、きっとまた、本や漫画も読めるようになるよね」と、向こうに見える私に言う。

 

誤った期待を持ってうまくいかなくなった帰国の時みたいに、今もきっと、読みの浅い希望を抱いている。

 

人間、そんなに簡単には変わらないね。

私は、たくさんの間違いを犯しても尚、甘い見通しを立ててしまっては、夢を見てしまうみたい。

お箸の持ち方と、日本語の字の書き方は、父に習った。

 

私の字は、持つペンのインクの性質や出方、そしてそのペンの形状で有様が大きく変わることがある。当然乱れた字を書くこともある。

それでも、ある程度は整った字を書けると自負している。

そう感じられるのは、父が、就学前に少しの厳しさを持ってひらがなを書く練習をしてくれたからだった。

 

私は時々不満を持ちながらも、その時間が嫌ではなかった。

厳しいと言えど、体罰などなかったし、厳しいというのは、言い換えれば根気強く私に向き合ってくれたということで、理不尽な個人的な正しさを振り翳してコントロールするような性質の厳しさはなかった。

よい厳しさを父から学んだように思う。

 

しかし字は綺麗に書けても、ペンの持ち方だけはあまり良いものにはならなかった。よく注意された。

ペンがうまく持てなかったのは、握力が弱いせいだっただろうか。ちょっとした癖がついてしまった。

 

それは箸の持ち方への自信にも影響した。

 

箸を持つことが当時の私には少し難しく、補助付きの箸を使ってもうまくものが掴めなかった。

それが悔しくて、うまくいかない時はずっと箸の練習をした。父がシャワーを浴びに行ったときも私は一人で箸の練習をした。

何か掴めた時は、掴んだままお風呂場に行って、シャンプー中の父に「見て!」と言う。

その時の、「こんな時までか」と、困ったように笑って、すごいと褒めてくれた父の顔を私は今も覚えていて、戸惑いを含みながら私のために笑ってくれた顔に、愛を感じてしまった。

厳しくも、上達するまでずっと向き合ってくれた箸と字の訓練は、その後もずっと私が「普通」であることを可能にしてくれた。

普通になりたかった、少しでも逸脱があることを恐れていた私にとって、父の指導は、感謝に値するものだった。

 

 

私の父は、字が綺麗、と100人いれば100人が言うような字ではない。

読むことには問題もない、バランスもいい。

でも、私のお手本になっていた、明朝体のフォントで構成された練習帳たちとは違うようなスタイルの字で、お手本のように書けと指導されていた私にとってはお世辞にも綺麗とは思えなかった。

 

自分だってわかりやすく綺麗ではないくせに、どうしてこんなに字のことを言われないといけないんだろう、と、時々思うこともあった。

 

私が字の練習をそれでも頑張れたのは、指導という行為を通して根気をもって興味関心を私に向けてくれた父に褒められたかったでもあるし、加えて私よりは字が綺麗ではなかった兄の字を見て、「こうはなりたくないな」と思えていたからだった。

 

ちょっとだけ不服を感じることは当然ありつつも、適切な厳しさをもって父に指導された字と箸の持ち方は今も少し誇りだった。きちんと持てているはずが、箸で持った食べ物をこぼしてしまうことは大人になってもよくあるのだけど。

 

 

字を褒められることがあったり、本当に時々、「習字をやっていた?」と聞かれると、「父が教えてくれたんです」と返すことがある。

 

父に感謝していることを父本人には伝えられるくらい家族に素直な私ではないから、誰かにそれを伝えることで、間接的に、私が父に感謝していることを世界に記録してもらいたいと思っていた。

本人に伝えない以上、本人からしたらなかったと同じかもしれないけど、私にその気持ちがあることだけはそのままどこかで記憶されたくて、字を褒められたら、すかさずそう言うようにしていた時期があった。

 

 

 

誰かが時々褒めてくれるような私の書く字を構成してくれた父の、そんな父の書く字が、乱れるようになった。

 

父の視力が落ちたからだ。

 

予兆は、数年前からあった。

 

 

60を過ぎてからタクシー運転手に転職した父は、片手で数えられるくらいの年数でその職を離れた。

視力が悪くなっていたからだった。

私の父方の家系は、遺伝的に糖尿病のリスクが高く、父ももういつからか糖尿病の診断を受けていた。

その影響が目にも現れたのが、数年前だった。

 

人に害はなかったものの、仕事で事故を起こしてしまったり、家でもキッチンや洗面所などに汚れがそのまま放置されていることが増えた。

目が見えなくなってきているのか、と思った時、私は当然通院を勧めた。

ああ父もそんな歳なのか、と感じて、大学に居続けることももうできないかもしれない、と思った。あの時、「もうこの学期で大学生活も最後かもしれない」と、ほとんど遺書を書くような気持ちでレポートを書いていたほど、何かを自分の中で勝手に覚悟した。

今思えば、あの時はまだ軽症で、そこまで心配するほどではなかっただろう。

 

 

そう考えられるほど、父の視力は今やますます落ちているように感じる。

もう、父が意図せずして汚した家の一部をすべてきれいにする気力は私にもなくなってしまった。

コロナ禍に入って、人生で一番勉強したと言えた大好きだった今の家は、私にはもう、長居できるような場ではなくなってしまった。本もゆっくり読めず、勉強など家ではできなくなった。

それくらい、視力の悪い父と暮らすことがストレスになってしまった。

 

 

 

私と父は、あることをきっかけに一切話さなくなった。

私が、話せなくなってしまった。

それでも父は間接的に私の面倒を見てくれていて、私はなんて親不孝なんだ、勝手のいい人間なんだとと思うし、でも、そうなってしまったとしか言えない状況がいまだに続いている。

 

だから、やりとりすることがあるとしたら、LINEか、付箋で最低限のコミュニケーションをとる。

目が見えなくなった父はLINEをみることもほとんどなくなったし、入力はきっと、ほとんど音声入力だと思う。誤字も増えた。

 

 

でも、それより、見るたびに悲しくなるのが、付箋に書いてある父の字だった。

 

いつだったか今年の春先に、付箋がついた袋が、ダイニングルームのテーブルに置いてあった。

 

父は、目が見えなくなりつつあるとはいえ仕事は続けていて、仕事先で何かもらったりすると私にお裾分けをしてくれることがある。

「お客さんからもらった羊羹」とか「お店にあるうちわ」とか、そんなふうに、付箋が貼ってある。

でも、その付箋に貼ってある文字を見て、私はいつも泣いてしまう。

 

かすれた油性ペンで、何か書かれているようでほとんどまっさらな付箋を見たある春の日、「この人はもう、書いているという感覚だけで、何が書かれているのかをわかっていないんだ」と認識し、涙が止まらなくなった。

 

そこまで悪化していた。ずっと通院を拒んで、治療をしなかった。

漢方のみが信頼に足るのだと視力を失ってでも思い続けるような頑固な父の頑固性を強めたのは宗教だと私は思っているから、父の付箋を見るたびに、父の書いた字を見るたびに、最近亡くなったあの教祖を恨んでしまう。

 

あるとき、学校に提出するための書類にサインをお願いした。

そこに書かれた父の字は、傷だらけの机の上で字を書いたのかと思うほど乱れていて、それを見るのがつらくてつらくてたまらなかった。

もう、25も超えた人には常に保証人が必要となる書類制度を変えてくれないかと学校に言いたくなった。

 

 

今年何度も見た、付箋に書かれている文字は、私が認識していた父の字からはすべて離れていた。

書かれていない時もあったし、インクが出ていても、今までとは違うバランスで書かれた字を、私は父の文字だと捉えたくなくなってしまった。

 

どうにか書かないでほしい、と思ってしまう。

でもきっと、父にとって、付箋は、話せなくなった私たちが取れる一つの貴重なコミュニケーションなのだろうと思う。

たとえ事務的な言葉しかそこになくても、父にとってその付箋は、手紙のようなものなのだろうと推測してしまい、私はますます悲しくなる。

 

私たちが話せなくなったのも、そのきっかけになったのも宗教観の違いからだった。

 

からしたら、父は、健康も、字も、お金も、人間関係も宗教に奪われた。

しかし本人からしたら自主的な信仰で、誰も奪っていないというだろう。

それがわかるから、何もうまく責めきれない。責めたいし恨めしいのに、そこには何もない。幻影を恨むしかないような現実がとても悔しい。

ただ私がすることは、その字を見て、最後がこれだったのだということにとてつもなく悲しくなることと、しかしながらその悲しさが一体なんなのかを見つめる気持ちにもなれず、ただ涙を流すことだけである。

 

 

私の字を指導してくれた父の、乱れていく字を見るたびに、時々書かれていない文字があることに気づくたびに、この人にとっての信仰が、視力を失ってでも幸せだったと、人生の終わりの瞬間まで変わりなく思える信仰でありますようにと願う。それしかもう、できない。