お箸の持ち方と、日本語の字の書き方は、父に習った。

 

私の字は、持つペンのインクの性質や出方、そしてそのペンの形状で有様が大きく変わることがある。当然乱れた字を書くこともある。

それでも、ある程度は整った字を書けると自負している。

そう感じられるのは、父が、就学前に少しの厳しさを持ってひらがなを書く練習をしてくれたからだった。

 

私は時々不満を持ちながらも、その時間が嫌ではなかった。

厳しいと言えど、体罰などなかったし、厳しいというのは、言い換えれば根気強く私に向き合ってくれたということで、理不尽な個人的な正しさを振り翳してコントロールするような性質の厳しさはなかった。

よい厳しさを父から学んだように思う。

 

しかし字は綺麗に書けても、ペンの持ち方だけはあまり良いものにはならなかった。よく注意された。

ペンがうまく持てなかったのは、握力が弱いせいだっただろうか。ちょっとした癖がついてしまった。

 

それは箸の持ち方への自信にも影響した。

 

箸を持つことが当時の私には少し難しく、補助付きの箸を使ってもうまくものが掴めなかった。

それが悔しくて、うまくいかない時はずっと箸の練習をした。父がシャワーを浴びに行ったときも私は一人で箸の練習をした。

何か掴めた時は、掴んだままお風呂場に行って、シャンプー中の父に「見て!」と言う。

その時の、「こんな時までか」と、困ったように笑って、すごいと褒めてくれた父の顔を私は今も覚えていて、戸惑いを含みながら私のために笑ってくれた顔に、愛を感じてしまった。

厳しくも、上達するまでずっと向き合ってくれた箸と字の訓練は、その後もずっと私が「普通」であることを可能にしてくれた。

普通になりたかった、少しでも逸脱があることを恐れていた私にとって、父の指導は、感謝に値するものだった。

 

 

私の父は、字が綺麗、と100人いれば100人が言うような字ではない。

読むことには問題もない、バランスもいい。

でも、私のお手本になっていた、明朝体のフォントで構成された練習帳たちとは違うようなスタイルの字で、お手本のように書けと指導されていた私にとってはお世辞にも綺麗とは思えなかった。

 

自分だってわかりやすく綺麗ではないくせに、どうしてこんなに字のことを言われないといけないんだろう、と、時々思うこともあった。

 

私が字の練習をそれでも頑張れたのは、指導という行為を通して根気をもって興味関心を私に向けてくれた父に褒められたかったでもあるし、加えて私よりは字が綺麗ではなかった兄の字を見て、「こうはなりたくないな」と思えていたからだった。

 

ちょっとだけ不服を感じることは当然ありつつも、適切な厳しさをもって父に指導された字と箸の持ち方は今も少し誇りだった。きちんと持てているはずが、箸で持った食べ物をこぼしてしまうことは大人になってもよくあるのだけど。

 

 

字を褒められることがあったり、本当に時々、「習字をやっていた?」と聞かれると、「父が教えてくれたんです」と返すことがある。

 

父に感謝していることを父本人には伝えられるくらい家族に素直な私ではないから、誰かにそれを伝えることで、間接的に、私が父に感謝していることを世界に記録してもらいたいと思っていた。

本人に伝えない以上、本人からしたらなかったと同じかもしれないけど、私にその気持ちがあることだけはそのままどこかで記憶されたくて、字を褒められたら、すかさずそう言うようにしていた時期があった。

 

 

 

誰かが時々褒めてくれるような私の書く字を構成してくれた父の、そんな父の書く字が、乱れるようになった。

 

父の視力が落ちたからだ。

 

予兆は、数年前からあった。

 

 

60を過ぎてからタクシー運転手に転職した父は、片手で数えられるくらいの年数でその職を離れた。

視力が悪くなっていたからだった。

私の父方の家系は、遺伝的に糖尿病のリスクが高く、父ももういつからか糖尿病の診断を受けていた。

その影響が目にも現れたのが、数年前だった。

 

人に害はなかったものの、仕事で事故を起こしてしまったり、家でもキッチンや洗面所などに汚れがそのまま放置されていることが増えた。

目が見えなくなってきているのか、と思った時、私は当然通院を勧めた。

ああ父もそんな歳なのか、と感じて、大学に居続けることももうできないかもしれない、と思った。あの時、「もうこの学期で大学生活も最後かもしれない」と、ほとんど遺書を書くような気持ちでレポートを書いていたほど、何かを自分の中で勝手に覚悟した。

今思えば、あの時はまだ軽症で、そこまで心配するほどではなかっただろう。

 

 

そう考えられるほど、父の視力は今やますます落ちているように感じる。

もう、父が意図せずして汚した家の一部をすべてきれいにする気力は私にもなくなってしまった。

コロナ禍に入って、人生で一番勉強したと言えた大好きだった今の家は、私にはもう、長居できるような場ではなくなってしまった。本もゆっくり読めず、勉強など家ではできなくなった。

それくらい、視力の悪い父と暮らすことがストレスになってしまった。

 

 

 

私と父は、あることをきっかけに一切話さなくなった。

私が、話せなくなってしまった。

それでも父は間接的に私の面倒を見てくれていて、私はなんて親不孝なんだ、勝手のいい人間なんだとと思うし、でも、そうなってしまったとしか言えない状況がいまだに続いている。

 

だから、やりとりすることがあるとしたら、LINEか、付箋で最低限のコミュニケーションをとる。

目が見えなくなった父はLINEをみることもほとんどなくなったし、入力はきっと、ほとんど音声入力だと思う。誤字も増えた。

 

 

でも、それより、見るたびに悲しくなるのが、付箋に書いてある父の字だった。

 

いつだったか今年の春先に、付箋がついた袋が、ダイニングルームのテーブルに置いてあった。

 

父は、目が見えなくなりつつあるとはいえ仕事は続けていて、仕事先で何かもらったりすると私にお裾分けをしてくれることがある。

「お客さんからもらった羊羹」とか「お店にあるうちわ」とか、そんなふうに、付箋が貼ってある。

でも、その付箋に貼ってある文字を見て、私はいつも泣いてしまう。

 

かすれた油性ペンで、何か書かれているようでほとんどまっさらな付箋を見たある春の日、「この人はもう、書いているという感覚だけで、何が書かれているのかをわかっていないんだ」と認識し、涙が止まらなくなった。

 

そこまで悪化していた。ずっと通院を拒んで、治療をしなかった。

漢方のみが信頼に足るのだと視力を失ってでも思い続けるような頑固な父の頑固性を強めたのは宗教だと私は思っているから、父の付箋を見るたびに、父の書いた字を見るたびに、最近亡くなったあの教祖を恨んでしまう。

 

あるとき、学校に提出するための書類にサインをお願いした。

そこに書かれた父の字は、傷だらけの机の上で字を書いたのかと思うほど乱れていて、それを見るのがつらくてつらくてたまらなかった。

もう、25も超えた人には常に保証人が必要となる書類制度を変えてくれないかと学校に言いたくなった。

 

 

今年何度も見た、付箋に書かれている文字は、私が認識していた父の字からはすべて離れていた。

書かれていない時もあったし、インクが出ていても、今までとは違うバランスで書かれた字を、私は父の文字だと捉えたくなくなってしまった。

 

どうにか書かないでほしい、と思ってしまう。

でもきっと、父にとって、付箋は、話せなくなった私たちが取れる一つの貴重なコミュニケーションなのだろうと思う。

たとえ事務的な言葉しかそこになくても、父にとってその付箋は、手紙のようなものなのだろうと推測してしまい、私はますます悲しくなる。

 

私たちが話せなくなったのも、そのきっかけになったのも宗教観の違いからだった。

 

からしたら、父は、健康も、字も、お金も、人間関係も宗教に奪われた。

しかし本人からしたら自主的な信仰で、誰も奪っていないというだろう。

それがわかるから、何もうまく責めきれない。責めたいし恨めしいのに、そこには何もない。幻影を恨むしかないような現実がとても悔しい。

ただ私がすることは、その字を見て、最後がこれだったのだということにとてつもなく悲しくなることと、しかしながらその悲しさが一体なんなのかを見つめる気持ちにもなれず、ただ涙を流すことだけである。

 

 

私の字を指導してくれた父の、乱れていく字を見るたびに、時々書かれていない文字があることに気づくたびに、この人にとっての信仰が、視力を失ってでも幸せだったと、人生の終わりの瞬間まで変わりなく思える信仰でありますようにと願う。それしかもう、できない。