I NEED MY FAM

 

■失われない

 

どんなことをされても、どんなことを言われても、どんなことを私が誤ってしてしまっても、私の大切にしたいこととか、私が守りたいと思うものや誰かとの関係性(ものや関係性そのものより、そのものや関係性を大切にしたいという私の思い)が失われるわけでも毀損されるわけでもないんだ、と思うことにした。

思うことにしたというか決めてみた。

決めるだけでよかったのか、と思った。決めるまでには時間がかかったけど。

 

気分が昂ったり、落ち込みやすかったり、いろんな私がいて、いろんなモードでいろんなことするけど、どこかに失われない私がいるなら、どんな自分が出ても大丈夫だと、この1週間で思っている。

これからの人生は、それが真であったと証明するために生きてみたい。

 

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■寂しさが止まらない

 

4年前の6月6日に、自分の大学(キャンパス)に哲学サークルを設立してみた。

どうしてつくったの?と数ヶ月に一度くらい誰かに聞かれるが、「私が、対話できる場や仲間がほしかったから」と答えて終わる。

他の人がどうサークルをつくっているか知らないけど、私が必要だったから、そうした。

寂しいという思いを抱えすぎてつくった。

本当にそれでしかない。

 

結果どうでしょう。出会えました。

 

でも、仲間と言える存在に出会えた今でも、寂しさがずっとある。

サークルに限らない。

 

大好きだった恋人と出会えても、この人と出会えてよかったと思う師に出会えても、毎回刺激を与えられる学びばかりの授業を聞いていても、寂しいと思ってしまう。

ずっと寂しい。

 

寂しいと思いすぎている利点があるとすれば、どんな人の寂しいにも寄り添えることくらいだろうか。

そんな自分だから、大事だと思う相手にはいつも心の奥底で、「私の前ではいくらでも寂しいと言ってくれ。わかるから。わからないけど本当にわかるから」と念じている。

でも寂しいってそもそも思わないのか、思っていても言う相手が私じゃないのか、寂しいという言葉を発するカロリーが高いのか、「ねえ寂しいよ」という人をあまりみたことがない。

だから、みんなすごいな、と思う。そしてまた、誰かと寂しいを共有できない事実に、さらに寂しいと思い続ける。

 

私が寂しいから、この場を使うね、とサークルのメンバーに思う。

私が寂しいから、寂しいと言い続けるけど、いつも寂しいトークに付き合わせてごめんね、とも思う。

その代わり、あなたの寂しいをいつでも受け入れる懐だけは同時にあるから、寂しくなったら時々頼ってね。

こんなところでひっそりと気持ちを置いておく。

 

友人とのLINE

 

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■重くなっちゃうよ

 

ある友人に親切にされて、「ねえそんなことされたら好きになっちゃう、重くなっちゃうよ」と言ったら、「ねえなんでそんなこと言うの?いいんだよ」と言われてしまった。

いいのか、と思った。いいのか?本当か?とも思った。

 

でも、確かに、なんで、と彼女が言うのは正しいと思った。

誰に対しても、あらかじめ線を引いて、これ以上好きにならないようにするね、と言うのは私で、傷つかないように、寂しくならないように、と勝手に私が決めている。

だからどこかで寂しさが爆発しそうになった時、「誰も頼れない」とか勝手なことを思う。

 

自分から線を引いておいて、それはちょっと周りに失礼じゃないか、と感じたし、自分から重くないようにと、相手の負担になるかどうかを私の基準で私が先んじて決め、結果誰にも体重をかけないようにした結果寂しがってるのは滑稽だと思った。

 

ならば、嫌がられたり、今それできないよ、言われない限り、ちょっとした片思い性が生じていても、好きって強く強く思う勇気を私は持たないといけない気がする。

相手も、自分の状況や気持ちを言えるだけのマインドや大人性はあるはずだから、ずっと慮ってるつもりで相手を見下すような真似をしないで、人間であることを、つまりはその人の中にある理性と知性を信頼して、好きな人たちにもうちょっと体重乗せてもいいのではないか、と今は実験中。

 

いやだったら教えてください。

 

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■期待

 

ある友人が、私の誕生日を迎えた深夜に、4分を超えるビデオメッセージを送ってくれた。

人生で初めて誕生日ビデオメッセージをもらって感動してしまって(ちなみにその後、他の友人もビデオメッセージをくれた)、伝えたい感謝や想いはたくさんあったのだけど、私ももらったものとなるべく同じような形でこの感動を返したいと思い、「ビデオレターで返すね」と伝えたまま、1ヶ月半以上が過ぎてしまった。

なんとなく機会を伺い続けていたのだけど、なんとなく機会をつくれずにいた。

 

伺い続けたタイミングが来たと思える瞬間があって、その時に私は「今だ!」とビデオメッセージを撮り、友人に遅くなったお返しのビデオレターを送る。

 

「ビデオレターで返すね」と言った言葉は私にとってまったく軽い言葉のつもりはなかったが、時が経ってしまえばしまうほど、あの言葉を軽くしてしまっているな、と自分なりに反省しながらもいた。

軽い言葉にしてしまう結果をつくり出していながらも、私は絶対にその友達にビデオで伝えたいことを伝えようと思っていたので、こんなことを言うのはずるいかもしれないけれど、あれは嘘じゃないの、本当なんだよ、とその人のいないところで、その人に空で語りかけた。

 

忘れないでほしかった。期待していてほしかった。

ただ、思ったより時間が経ってから送り返すのは、もはや私も緊張してしまった。

もうその人は私が言った言葉なんてもはや忘れているのかもしれない。

ビデオが送られてはじめて「そんなこともあったな」と思われるくらいなのだと思っていた。

 

それでもビデオを送る。既読が付く。

 

その過程で私が思ったのは、

「ごめんね、もう今さらすぎるし、このタイミングでいきなりビデオレター送っても、誕生日にもらったビデオレターの嬉しさ抱えすぎている重い人間だと思われるかな。ああ、怖いな」

だった。

送った矢先に、既読がつけばついたで緊張する。

 

 

それからそんなに時間が経たないうちに、感謝の言葉と共に

「あなたのことだから、きっとどこかのタイミングでお返しビデオをくれそう、と密かに楽しみにしていたよ。」

という言葉が送られてきていた。

 

つい先ほどまで持っていた緊張と恐れが宙に舞った。

 

忘れないでいてくれた。

私という存在との関わりがあるからこその、わたし性を知った上で、期待してくれていたことを知った時、いや、その人にとってのこの言葉が、私のいう「期待」と合致するものかはわからないけれど、忘れないでいてくれたと知った時、私は「期待してくれていたんだ」と思ってしまった。

忘れないということがほのかな期待だったのではないかと自惚れた。

 

 

よく、サイバー文通をする、まだ出会ったことのない人がいる。

その人とのやり取りの中で、「時々見そびれたりお返事が遅くなったりできてない時もあってごめんなさい」と伝える。

 

その人は、

「返事はいつでもいい。でも、あなたにはいつか届くと信じています。」

と私に言ってくれた。

 

また別の期待だと思った。

ただただ、うれしいという気持ちを、それだけかもしれないけれどそれだけを強く感じた。

 

 

「人に期待しない(で、そんなことをするくらいなら自分を律するべき)」というような文言が昔から苦手だった。

どうしたって私は自分にも他者にも世界にもタイミングにも期待をしてしまうから。

 

人に期待しないことが重要な場面があるのもわかる。

誰に、そして何を期待するかのあり方で自らの気が落ちてしまうくらいならばそれをコントロールした方がいい、学ぶべき盤面があることも理解はできる。

それでも私は、ベースとして人に期待をしてしまう。

それが自分にあまりいい結果をもたらすばかりでないのはもうわかっている。

できることなら人に期待をしないでもっと凪のような状態を保てる人間でありたいとも思う。

 

 

数年前、二人の友人が「あなたは期待と絶望をどちらもしっかりやるよね」と私に言ってくれた。

それを言われてからさまざまな出来事を思い出すと、確かにその言葉は自分のあり方によく当てはまっているような気がした。

 

私のあり方とは180°違って、ベースとしてまったく人に期待しない人、学びの末に人に期待しないでいることを身につけた人たちには心底憧れる。

憧れるほどに、私にはどうしてもできない。

 

最初に書いたように、失われない自分がいると信じ始められているから、その延長で、最近は、期待したいと思う人と、期待しない事物を分けてもいいのだとは思えるようになったが、やはりどこかで、わかりあいたいと思ってしまうような人には何かの期待をしている。

一年半付き合った大好きだった人に各所でブロックされてもなお、大事だった以上は、「10年後くらいにいつかばったりあって2分くらい話せる時が来たらいいね」と思う。

恋心の未練からではなく、しかし大事だったからこそ、その人がきちんと健康に生き、今よりもずっといい形で自分自身の生と向き合っている姿を直接知れる機会があることに期待している。

 

それほど期待度が何もかもに対して高いものの、私もあまり他の人に自分の抱える期待を見せないようにしたいと思ってしまうし、期待しているのがバレるのは恥ずかしいとも思うし、「重いよな、ごめん。気づきませんように」と思いながら期待をしているのだけれども。

 

 

誰かに期待する自分だからか、誰かからかけられてうれしい期待があるということを友人らとのやり取りで知った。

 

そこから、私って結構、期待されたい人間だし、期待されているという評価が目に見えると物事をもっと頑張りたくなる、浅はかさな現金さがあるのだな、とようやく気づかされた。

期待が重い、評価はきつい、という気持ちもある。当然である。

しかし、適切なフィードバックをくれる(私へのコントロール欲求ゆえのフィードバックではない、という意味での"適切")と信じられる、よきオーソリティ(※)がある人間にはいくらでも期待も評価もされたい。

それも事実である。

 

この特性を、自分の主導権を握られたくない他者にうまいように使われないことに気をつけたいが、私にとっての他者関係における充足感というのは、「期待してもいいし、ある程度期待される関係性の中に生まれるもの」だとわかった。
そうわかれば、もうちょっと満たされる時間というのを意識的に増やせる気もする。

 

私はあなたに期待したいしされたいから、たとえぶつかってでも話し合いたいし、会いたいし、時間を過ごしたい。

その意識がある人に会うこと、その意識を持たせてくれる人を大事にすることが、私が守りたい一つのラインなのだと思う。

 

 

だから私がこれから関わりたいと深く思う人たちは、期待したいしされたいと思っている人です。

でも、期待されたくないという人、期待されるのは荷が重いという人がいるのもわかるし、そういう状況な時があることもあるし、それくらいは感じ取れますので、負担になりすぎないように、あるいは私のこの志向そのものが常に負担になるなら引き際もちゃんと考えます。

 

 

 

 

※「よきオーソリティ」は、所属する研究会で先生が出した言葉で、教育を施す機関で友達の役割と先生の役割について話し合っていた時に出てきた概念。教師が、友人と違う形で学生や生徒に働きかけられるのは、あるいは被教育者に意義をもたらすのは、オーソリティ性ゆえであり、そのオーソリティとは、「評価ができる」ということ、つまり「評価の基軸をたくさん持っている」、さらにいうと、「人を見ながら、どこを見れば適切に評価ができるのかを考えられる」「評価の尺度がたくさんある、かつ評価の仕方に納得ができるということ」「豊富な知識を持ち、それを持ってして評価という行動ができる、運用ができる」と定義されていて、私はこの概念が今現在結構好きでよく使います

重み

あまりの罪の多さに自分を抱えきれなくなる感覚にまた襲われる。

 

帰宅し、身体を洗いながら、自分の身体を愛することができる日が来るんだろうか、もう一生来ないのかも知れない、と悲観的な思いで包まれてしまった。

常についてまわる身体を、忌々しく思いながら20代を過ごしてしまった。

20代が続く残りの数年で、ちょっとはこの身体でもいいと思える地点がくる気配を未だ感じられず、それは悲しいことだよな、と感じているが、それをどうポジティブなものに変えられるのか、未だにわからないでいる。

悲観的な思いに陥った瞬間、呪いの言葉がまた反芻する。

何気なくいった、誰かがその時感じていたどうしようもない事実が、何年経っても突き刺さったまま取れない。

 

 

魔法を欲しては、罪を犯した。

 

若さというべきか、いや、幼さゆえの勢いで、魔法は存在しないのだと今や了解したその魔法が、どこかに存在するのではないかと、強い意志ではなくもはや無心で信じたがった昔の私は、あまり人に言えないようなことに手を出した。取り返しのつかないことをしたのだと認めるにも時間がかかった。

 

 

 

過去から続く自分の歴史が抱えきれなくなると、人が恋しくなる。

人に言えないようなことをしているのに、そんな間違いを犯したのに、その責任はきっと、反省し自らでそれを背負い続けることでしか負えないのに、赦しか救いかのために、人を求めようとしてしまう。

別の皮膚の空気に触れている感覚がある場で、罪を誰かに言ってしまいたくなる。

だめだよ、自分で抱えるんだよ、自分で管理しないと、と自分を戒める。

 

 

 

 

精神疾患を患った友人と話しながら、「私は病気になってよかったって思う」という言葉がその人から出てきた時、一瞬聞こえないふりをしたかった。

その言葉を否定したいわけじゃない。私もそう思うことが何度もあった。

でも、病気を起点に犯した間違いたちは、嫌われたくなかった家族にどんどん嫌われていく理由をつくってしまった。

 

まだその関係は修復されていない。

 

 

未だに、家族と仲良くしたかったことを思って泣いてしまう。
 
ちゃんと自分からも壊したのに。
仲良くしたかったも何も、ずっと仲良くできないのは私なのに。
 
マルチバースの私は仲のいい家族と楽しく話せていることもあるのかもしれない。それならいいな、と思う。
 
 
 
 
27歳になった2ヶ月前、「もうちゃんと大人なんだな、私」とふと思った。
今まで被害者でいられただけのことも、そうじゃいけないんだと思うようになった。なれたのかもしれない。
 
ただ、どこまで被害で、どこから責任を負っていくのかが曖昧なまま、それを考えたりそこに向き合うことをきちんとしないまま、大人にならなければという意識だけが強くなった。それはただ自責の念を強めるだけなのに。

 

 

 

 

 

「そういえば、ハワイはどうだった?」と、帰国から3ヶ月が経っても聞かれた。

「楽しかったんだけど、すごくつらかった」と私は言っていたらしい。

 

「すごい矛盾していることを同時に言うんだね」と笑った友人を目の前にして、口から出た言葉を記憶の中でなぞり、そんなことを言ったのか、と確認する。

友人はそのまま笑いながら、「なんで?何が?」と問い、私は何がつらかったのか改めて言葉にしようとした。

 

 

日本を出たいと思った。

なんとかうまくやれていると思った家族の一人とさえうまくいかなくなって、人の力を借りてでも、生まれた土地を離れたい、新しい居場所をつくりたいと思った。

 

逃げることを正当な理由にして包んでくれるのが海外への留学だと思ったから、どうにか人に頼み込んで、一時的に逃げることに成功した。逃げるだけが目的ではないが、言ってしまうのなら、愛を求めて逃げた。

 

向き合うよりも、ただただ逃げたかった。関係から逃げたいというよりは、もう何もかもうまくいかなくなってしまった事実から逃げたかった。

逃げることはできても、事実が消えるわけではない。

 

逃げた先でできた人のつながりは、予想以上に愛おしいもので、そういう喜びはあった。

それでも、何も考えずに体重を預けられるような人や場所や関係があるのだと実感として信じられていない自分が、どこに行こうが苦しかった。

人の力を借りて逃げたからこそ地盤は常に不安定で、離れた土地にいつまでいられるかもわからないという焦燥感が、さらに「早くここで休める場所をつくらなければ」「ここにいてもいいと言ってもらえる場所や関係をどこかにつくらなければ」という気持ちを加速させる。

だからか、ずっとつらかった。

あそこで休めたことなど、本当に一度たりともなかった。留学は当然、そういうものなのだろうけれど。

 

しかし、ずっとつらい思いをしていたのは、向き合うよりも先に逃げることを選択してしまった罰だったのかもしれない。

 

 

 

そこから先は、諦めたのだと思う。

生を続けるという当然のことを了承することは、私には諦めでしかなかった。

 

もう、魔法を探し続けるのはやめて、自分で自分を背負うしかないのだと、ようやく気づいた頃には26歳が終わろうとしていた。きっと、良い諦めだった。

 

 

死にたいと思うことは圧倒的に減った。

生きるしかないのだと思えるようになった。

 

ただしそれは、過去の罪も死ねば洗い流せる、と思っていたそんな未熟さを引き受けることでもあった。

生き続けるということは、洗い流せもせず、バカみたいなことをしたあの時の自分を、自分が願っていたものを全部壊して自分から取り上げていた自分を、引責するということなのだ。

それはどうしようもなくしんどいことで、それから逃げないということは本当に大変なことなのだとようやく知った。

 

過去の罪がのしかかって、抱えきれぬ重みにつぶされそうになって、救いのために人を求めようとする気持ちを抑え、ただ文章にだけは、少し頼らせてくれと思ってしまった。今だけ、軽くしたがった。眠りたかったから。

 

 

 

何を求め、何で救われようとするのかさえ、他者の許しがなければ決められないと思っている精神性こそ甘く勝手なのだと囁かれる。

 

責任というものはあまりに重い。

 

許しを求める気持ちは、のしかかる力から逃げる気持ちと同じであるか。

罪がなければ、無邪気に人を求めても許されただろうか。

誰が許しを決めるのだろうか。

傷つくのが怖くて、許されないことを知る前に、一人で抱えようとしているから、結果的に抱えられなくなるんだろうか。

それとも本当に許されてはいけないのだろうか。

 

求めたい。

温もりの中で、罪を背負わせてください。

なんとなく変わってしまった

15年前、中学1年生になった時にコンタクトレンズを常用する日常が始まった。
その時からずっと、ある会社のあるブランドのレンズを装着していた。

それが最近、新たにコンタクトレンズをもらいにいった時、眼科で「今あなたが使っているものより性能が良くて少し安くなった、別の会社さんから出た新しいモデルがあるんです」と教えてもらうことになって、結果としてお薦めしてもらったそのモデルにレンズを変更することになった。

ずっと同じブランドのレンズを使っていたと言っても、アップデートされたりマイナーチェンジはあった。
それでも、15年も同じところのレンズを装着していた私にとって、「まだ今から変わりゆくことってあるんだ」と、自分の身に起きた大したことなさそうな変化が、すごく大きなものに感じられた。

変わるということが身近に起きたことが少し怖い気もしたし、そもそもはじめに自分が意図していたことは、「(これまで通りのコンタクトレンズを)追加で新しくもらいに行こう」ということだけだったから、抗うことでもないような、急に流れ込んだ変化の迫られように、呆気に取られてしまったのかもしれない。

 

前のコンタクトレンズがまだ少しだけ残っていて、新しいレンズを装着する日々が始まっていないから、「つけたら変わってしまう」気が今いちばん増大しているのかもしれないし、新しいものを身につけていくことが何日も続いて、それが当たり前になれば、こんな感情はどうでもいいものになりゆくのかもしれないが。

 

 

 

 

映画やドラマやアニメの鑑賞ログをつけていくアプリであるFilmarksを数年前から愛用している。
自分のプロフィール欄には、マイベスト10の映画を公開することができる。

昨日の夜、ふとそのマイベスト10をみた時、少し腑に落ちない感じがして、ちょっとだけ変えた。

設定した時よりも新しい時期に観た映画が新たにベスト10に入ってくることがあることは想像していたけど、すでに観ていた映画の順位自体が変わることはないだろうというつもりで設定していたのに、過去に自分がつけた順位に納得がいかなくなっていたことに気づいた。

順位の入れ替えをしながら、また、「変わることってあるんだ。」と不思議な気持ちになった。

 

 

 

 

高校生の頃持ち歩いていたエナメルバッグに、好きなものやかわいいと思えるもののステッカーをベタベタと張ることで自分の個性を少しでも主張したいと思っていた時期が過ぎて、それ以降、自分の所持する何かにステッカーをたくさん貼りつけることをしなくなった。

高校卒業後にマイパソコンを持つようになって、パソコンの外面にたくさんのステッカーを貼る人が一定数いることを知っても、なんだかそれをやる気にはならなかった。

逆張りで個性を主張できると思っていることがある私だから、単純にそういう人を多く見て「自分はやらない」と決めただけでもあるし、それと同時に、高校生の頃の無敵自意識を持てなくなってから、何かにステッカーを多く貼ることが怖くなってしまったからでもある。貼るステッカー貼らないステッカーの取捨選択をしていく自分やステッカーの配置などを気にし過ぎてしまう大人になった。

だからそういうことはこれからもずっとしないんだろうな、と自分を決めていたつもりだった。

最近、パソコンにつけているカバーにちょっとした汚れがついていることに気づいた。できる限り拭いてみたり工夫しようと思ったが、汚れなのか脱色なのか、その気になる何かが元のように戻ることはなかった。

 

映画館で『THE FIRST SLAM DUNK』を観に行った時にもらったステッカー集がちょうど手元にあって、気になる汚れがこれでちょうど隠せるかも、と思いたち、「パソコンの外面にステッカーをベタベタ貼ったりしない」という若干のマイルール的が見事に破られた。

これ以上増やすつもりもないけれど、「ずっとこう」だと思い込んでいた何かを変えた自分に驚きもしたし、「やっちゃった」という感覚がそれからずっと残って、閉じたパソコンを見るたびに、ただ、「そうかあ」とだけ、思ったりする。

 

 

変わらないと思い込んだり変えないようにしようと意図していたことが変わりゆくことはたくさんこれまでも見てきたはずだったし知っているはずだった。

なのに私は、ここ最近のなんてことない小さな変化に感じる必要もなさそうな寂しさと戸惑いを感じて、「私って、変化と折り合いをつける力がそうはないのかもしれない」と気付かされる。

変化を、うまく噛みきれないまま飲みこんだ。飲みこむことに異論があるわけでもなく、イヤというわけでもないものたちだから。

Filmarksの順位変化なんてすべて自分の問題であり最初から最後まで自分だけが関与して自分が決めたことなのに、「本当にこれでよかったのかな」と、一晩寝て起きてみてからも思う。気にしすぎなんだろうけれど。気にしすぎというか、解釈をしようとしすぎなんだろうけれど。

 

このわだかまりたちが、変化に対するちょっとした困惑が、早々になくなりゆくものだということも想像している。

これまで書いた変化と自分の感情は、おそらく気にするようなことでも、解釈しようとすることでもない気もする。すればするほど自分にとってよくないことでもあるのかな。それはよくわからない。

 

もしかしたら、良い変化も悪い変化も含めてすべての変化を受け入れることに耐え難さを感じている自分が、すべて維持だけを望みたい、と甘えた気持ちでいる自分が、こうした惑いや驚きを増幅させてしまって、勝手に解釈に悩んでいるだけだという感覚もある。

 

 

4月からは色々なものがガラッと変わることはもう決まっているのに、その心づもりや実感がこの身にないまま、小さな変化に、さみしくなっている。

このよくわからない感情を、見向きもしなくていいはずのそれらを、それでもなんだか残したいと思った。

 

なんとなく変わっていったものたち。なんとなくを拡大解釈したがる私。

さみしいからバスケをするんですか

帰国してから、ハワイにいた半年弱のうちでなかなか時間が取れていなかった運動の時間を取りたくてたまらなくなった。その中でも、やっぱり私はバスケがしたかった。

『スラムダンク』No. 71(原作コミックス8巻・アニメ27話)で三井寿が「バスケがしたいです……」と言うシーン

みっちゃんの「バスケがしたいです……」
by『スラムダンク』No. 71(原作コミックス8巻・アニメ27話)

 

クリスマスカードを贈ったことをきっかけに、私が帰国したすぐの年始に会おうと連絡していた中高時代の同級生かつ部活仲間だった友人がいた。

彼女と会えた日に色々話していると、彼女は今参加しているバスケサークルがあるという。どうしてもバスケがしたかった私は彼女が直近で参加するという日についていった。

久しぶりにプレイした割にはまあまあ動けてしまったが故に、そこから調子に乗ってバスケをする予定を入れすぎ、結果的に今は怪我をして療養中だが、今年の1月の半ばからバンバンとバスケの予定を入れていたのは、バスケすることが楽しくて楽しくてたまらなかったから。その時間がただただ楽しかったから。

 

いくらプロがやろうとも、知らん人の試合を見ることがどのスポーツであっても苦痛を感じる私にとって、スポーツ観戦は一度たりとも馴染めたことはないが、今この瞬間からでも知り合えた人たちのプレイを見るのはたまらなく好きだし、他チームであろうが、いいプレイを見れると本当にうれしくなってしまう。私自身が誰かと一緒にプレイしている中で、うまく連携できたり、華麗なシュートを入れるチームメイトを見た時には幸せを感じる。

 

バスケをすることで幸せだったのは、ただ周りと楽しくプレイができることだけではなかった。私はバスケをすることでこんなにも楽しくいられるんだと知れたことが重要だった。この時間を持てば、ちゃんとすごく幸せなんだと知った。そう知れている自分がいたことも幸せだった。

バスケをするには人が必要だし、場所も必要で、常に他者依存な趣味だけれど、それでも幸せであることには違いないのだから、これで幸せになってもいいのだと思えた。

 

 

 

私はもしかすると、「さみしい」という感情を他の人より感じがちなのかもしれない人間で、そのことがいつも恥ずかしかった。さみしさを感じる自分や、さみしい感情の延長線上でしてきてしまった行動すべてが恥ずかしい。

さみしさをあまり感じない(ように見える)人や、さみしさ故に過ちを犯すことなんてないような人をいつも羨んで、どうしたらそうなれるのだろうかと、いつになったら自分は「さみしい」から解放されるのだろうかとしょっちゅう考える。

さみしさを克服することが自分が大人になるということだと今でも心底思うし、さみしい気持ちが薄れたりさみしい気持ちをうまく抱えられることが自立の一つだとも思う。大人っぽくなりたいし、依存気質だからこそ自立への憧れも強くある私にとって、さみしさとの対峙はこれまでの人生で最大命題の一つだった。

 

さみしくない人間でいたい。さみしさがあっても、それをものともしないくらい強い人間になってみたい。さみしさを感じても、自分のとる言動がさみしさとつながりが薄い人間でありたい。

 

こんなことを思うと、誰かが時に「みんなさみしいんだよ。あなただけじゃない(から恥ずかしがることじゃない)。」と語りかけてくれることもあったけど、みんなが自分と等しくさみしさを抱えているということがたとえ事実であっても、己のさみしさコンプレックスが抜けることは私にはそうそうない気がする。

皆がさみしい人間だとして、それなら尚更、さみしさを克服した人間でありたい。そういう人間がかっこいいのだと思っているのだろう。

できれば強く、さみしさを追いやりたい。

 

しかし、いつもいつも人を必要としている自分が事実ここにいる。そんな自分を隠したい。きっといつ何時も、それを隠せてはいなかったのだろうけど、隠そうと思ってきたし、隠せるような自分になるために色々なことをできるようになりたいと思っていた。

人とつながるために、人が自分を見てくれるように、学位とか知識とかスキルとか"有能"性が自分にほしいのだろうと思っていたけれど、もしかすると、それ以上に私は、人とつながらなくてもなんとかできる、さみしさに強い人間になりたかったんじゃないか。だから、"有能"な人たちが持っているとするようなもの/できる何かがたくさん欲しかったのかもしれない。

 

さみしさを強く持ち続ける自分のことがいつもずっと恥ずかしくて、その気持ちは今もあるけれど、帰国してから友人と会って満たされたり、バスケをして満足感を異様に得られている自分を見ていて、どんなに他者依存で幸せが決まる人間だとしても、これで幸せな気持ちになれるなら、幸せだと心から思えているのなら、もはやそれはそれでいいのだと少しずつ感じ始めていた。

 

時が私を自然とそうさせたわけではない。

生まれ育った場ではない土地で出会い、短い時間しか共にいなかったというのに、共にいた時間、そして帰国が決まったときや帰国してからもずっと、私が笑顔でいたり楽しい気持ちでいることを心から願ってくれている人々がいたおかげであったに違いないと思う。

日本にもそういう友人は周りに絶対いたのだけど。そういった人たちに本当に失礼なことなのだろうけど、ハワイでようやくそういう人が周りにいてくれたのだと気づけた。

 

過程はどうであれ、何をするのであれ、私が幸せであることを願ってくれた人がいたから、他者依存性の高いスポーツで幸せになっても、それは恥ずかしいとか恥ずかしくないとかじゃなくて、ただそれでいいのだと思えた。それでいいというか、そうでしかないから。

 

私は本当に何をするにも人が必要な人間で、もうそれを飲み込むしかないのかもしれない。ある程度克服しようと思っても、しきれないのかもしれない。もうちょっと頑張ってはみるけど。

 

でも、今の私でも、叱ったりせず一緒にいてくれる人って、全然最初からちゃんと周りにいてくれたじゃん、とようやく気づけるようになって、そのうちに、自分の変えようのない好きなものとか、こういうもので幸せになる、というものが「さみしい人間」のそれだとしても、そういう自分としてやっていくしかないし、周りもきっとそれで叱ったり見捨てたりなんかしないのかも、と思えてきた。

 

 

これは、最近読んだ漫画に書いてあった言葉。

「力の足りない自分に自己嫌悪じゃなくて 誰かを必要とする謙虚さを持つんです」

『はじめて恋をした日に読む話』第39話(コミックス16巻)

 

今日は、夜、考え事で頭がこんがらがらがらって、でも心情をノートに書こうとしてもうまく書けず、絡まりすぎた糸を整理することもできず、一人でいるさみしさにやられながら自己嫌悪に陥っていたのだけど、そんな時に人が救ってくれた。

人とお話をして、聞いてもらっているうちに、私はこうして人と話す時間がないとダメだけど、「こうする時間が必要だ」って、この人にはもっとお願いしてもいいのかな、お願いしてみよう、と電話を切った時に思えた。包容力というのは、受容のうちにのみ見出されるものではなくて、受容しているうちに人の自主性を引き出す力のことを言うのかもしれない。

 

その人の包容力に救われた今、思う。

もしかしたらもうちょっと、人に「さみしい」とか、「わからなくなったから助けてほしい」とか、言ってもいいのかな。

ずっと、さみしくないふりをしたかったし、さみしさを悟られないでいたかったし、それはさみしがりやだと知られたら重くて見捨てられるかも、というのが怖かったからで、だから今までそういう素直な気持ちを本当には言っちゃダメなのだと思っていたけど、もしかしたらちゃんと言ってみてもいいのかな。

なんなら、きちんと話をしたい時も、たださみしくて話をしたいという時も、その気持ちを伝えてみたい気がする。と、少なくともその人には思えた。

 

それが、「誰かを必要とする謙虚さを持つ」ということにもなるのだろうか。自分だけじゃ謙虚さと卑下をよく履き違えているうちにおかしいことになっていくのだから、この漫画にあった「謙虚」というやつも学んでみてもいいのかもしれない。

 

 

人と一緒に何かをしたり、話したり、そもそもただ一緒にいるという時間が私には必要で、それらがなぜ必要かといえば、楽しい気持ちになったり幸せな気分を得るために必要なのだとしたら、その時間を求めてみるのはそんなに悪くないのかも知れない。

それらをさみしさの克服のためとか、自立した大人になるためとかわけのわからないことを言いながら押し殺そうとしたら楽しい気分になれる時が少なくなる。そちらの方があまり良くないのだろう。そうしてきてしまったせいで、たくさん問題を起こしてきてしまったのだから。

 

人に少しずつ「一緒に」何かをしたり、いてくれるようにお願いしたり、そのために力を借りようとしてみることも、学んでみたい。

 

謙虚かはわからないけれど、「いつもすごくさみしいんです。でも、さみしいからこそ人が感じられる時間が有り難く、そういう時間もすごく好きなんです」と言う自分を過度に恥ずかしがらないようにいられる強さは持ってみたいと思う。

そのあとに、「だから、これからも一緒に私といてください。」「一緒にこんなことをしたいです。」と言えるように。

 

 

 

 

 

 

 

 

バスケと冒頭のセリフを話した三井寿で思うことが一つ。

思い出話。ただの、思い出話。

 

 

人生で一度、「みんなとバスケがしたいです」と泣き崩れたことがある。

 

通っていた中高一貫校バスケットボール部に入った。

小学生の頃、バスケが好きとも特段思っていなかったのに、学校のミニバスチームがあることを知った時、なぜかふと入ってみたいと思い、クラスメイトの男子に「お前がバスケなんか」と笑われながらも少しの間ミニバスに触れた。

勉強や塾をおろそかにするからと親に途中で辞めさせられたが、中学受験後に入った女子校の中で最も活気がありそうで、活発そうな部活がバスケットボール部だったし、ミニバスで少しやったこともあったし、小学校の時に一番仲の良かった一つ上の学年の子がそこのバスケ部に入っていたから、ほとんど他の部活を考えることなしにバスケットボール部に入った。

途中でバスケが嫌になったりした時期もちゃんとあった。それで同級生たちの反感を買ったこともあったし、同学年の部活仲間は10人近くいて、人間関係のいざこざもそれなりにあったけど、やっぱりバスケは楽しかった。

 

弱小校で、部活に力を入れることもない、対外的に物静かな進学校の女子校であった母校は、どこの部活も高校2年生の秋で引退の時期を迎えていた。でも、私たちの部活だけ、途中から他の学校の運動部のように、高校3年生の春の試合で引退することになった。

そう決めたのは私たちの二つ上の学年からで、伝統的なことではなかったから、私たちの学年も、一人ひとり引退の時期の選択を迫られることになった。

高2の秋でやめてもいいし、高3の春でやめてもいい。選択肢を与えられた私たちは本当に悩んだが、中高時代に勉強の楽しさを一度も見出せず全く勉強してこなかった私は、受験勉強の遅れが怖くて、高2の秋で引退することに決めた。スタメンの中で、高2でやめると決めたのは自分だけだった。

私ともう一人のプレーヤーの友達にとっての引退戦であった高2の秋の試合は、あっけなく負けてしまった。惜しいところまでいった気もするけど、確かに負けた。

これで終わりなのかと思うと、自分で決めたことの割に信じられない気持ちだったことを今も覚えている。きっと顧問とコーチは何かを感じ取ってくれて、試合後に私を呼び出した。

顧問とは何度も何度も引退時期について話し合った。本心では部活を続けたかったけれど、受験を恐れていた私は、「高2でやめなければ将来まずいだろう」と本気で思ってしまって、話し合うたびに泣きながらも他の同級生より早い引退を決めた。だけど、顧問が最後まで選択肢をくれた。試合に負けて涙し続ける私に、「どうしたい?」と尋ねる。

 

口から出た言葉は、「もっとみんなとバスケがしたいです……」だった。

 

本当にこの言葉しか出てこなかった。三井とはまったく状況が異なるけれど、三井の気持ちがわかる人間はきっとあの部活の中で誰よりも私だと思っている。

「あれはマジでみっちゃんだったよね」と、引退してから顧問とコーチに揶揄われた。

 

三井も私も、たぶん、猛烈に、人と一緒にバスケがしたかった。そして、バスケが好きな誰もがきっとそうなんだろう。どうですか?

 

バスケをする意義、ただただ人とやることだと思ってもいいのかもしれない。

たとえ孤独な練習時間だって、人とやるためなのだと思うと、バスケって、私のようなさみしがりやを救ってくれるスポーツなのだろうかなあと感じる。

人を猛烈に必要とするスポーツ。人を必要としてもいいスポーツ。人を必要とするためのスポーツ。だからきっと離れられない。

 

私はずっとさみしくて、そういうわけでバスケが好き。大好き。

ハワイにいた時に住んでいた部屋があまりに蒸し暑くて、それでもエアコンの設置が難しそうだったから、そんな部屋に本を置いたままにするのはあまりいいことではないと判断し、友達の研究室に避難させてもらっていた。

その最中に帰国が決まり、帰国の間際に本たちを段ボールに入れ、持ち帰る準備をしたものの、その段ボールは、わけあって帰国の直前に持ち帰れなくなってしまった。だから、私が集めてきた本たちは、今、私の手元にはない。

 

久しぶりに家族と会って、家族といる時間ができたからこそ、改めて自分の孤独を家の中で感じた。そんな時に頼りたくなるのは本だったと気づいた。携帯電話だけでは埋めきれない心の隙を埋めてくれるような言葉がほしかった。

今いる場所に自分の本がなくて、急に寂しくなった。

ただ一冊だけ、帰国してから手に入れた本があった。

 

 

数日前、留学前に荷物を預けさせてもらっていた友人の家に、荷物を取りに行った。

その友人は、私が留学している間に恋人ができていた。彼の新しい恋人は、私が荷物を置かせてもらっていることを「なんかマーキングしているみたいだね」と言っていたそうだった。ちょっとショックだった。マーキング女にされてしまっていることと、男の恋人の家に女友達の荷物が置いてあったらそりゃあ嫌だよなあ、嫌なことしちゃってるなあ、という申し訳なさとで。

マーキングしてしまっていてごめん。

他にも何人かの友人(同性もいます)の家に、留学前から本やら荷物を置かせてもらっているので、全員の顔が浮かんで、「マーキングしているのか私…」と思ってしまった。ごめん。

と思いつつも、その友人には、掃除機もソファもいくつかの食器等もあげてしまったので、マーキングの収拾がつかない。

 

「まあ、マーキング返しってことで、色々もらったりもしたし、今こんなかから一冊本あげるよ」と、冗談なのか本気なのかわからない調子で言葉を続けた彼に甘えて、友人の本棚にあった谷川俊太郎の『ひとり暮らし』をもらって帰ってきた。

 

これまでせっせと集めてきた大事な本たちがないからこそ、手元にある唯一の本が、小さなおまもりになった日。今いる家の中ですこし悲しい思いを抱えてしまった今日だからこそ。

活字は孤独にちゃんと効く。

 

 

ことばをもつことのできた人の心は、この世ならぬものまでを日常の中にまざまざと描き出す。人間は他者のからだ・心を媒介にして、自らの死を超えて宇宙に恋することができる。

 

 

宇宙に恋するように、生きたいものです。最後だけ敬体。

クリスマスと家族にまつわる記憶、そして覚悟のようなもの

思いがけず、クリスマスの早朝にハワイを去り、クリスマスから一日経った12月26日に日本に到着するという予定ができました。

 

せめてハワイでクリスマスを感じてから帰りたいと思っていたので、イブを過ごせるのはうれしいし、クリスマス当日が移動になることはそこまで悲しくはないですが、新しいクリスマスの過ごし方だなあと感じています。

 

私は、一年の中でもっとも、クリスマスが好きです。

クリスマスに勝てる行事は今のところありません。

私がクリスマスが好きなのは、いくつか理由がありますが、一つにあるのは、幼い頃のクリスマスの記憶が良いものでもあったからだと思います。

 

 

私が幼い頃、自分の家族にはあまり経済的余裕はないイメージがありました。

子どもの頃の印象なので、実際のところはよくわかりません。そんなこともなく、もしかしたらいわゆる中産階級的な感じだったかもしれません。

でも、私が小学校に入る前は、私の母親がまだ事業を興す直前くらいで、この家族の歴史的には比較的お金の余裕がない方だった気がします。


母が事業を持って以降、そして7歳下の弟が生まれてからは、祖母が韓国からやってきて、子育てと家事をほとんど代わりにやってくれましたが、その前は母親が私と兄の面倒を見ていました。

とはいえ、それでも母も働いていて、うちの親は共働きではあったので、とても大変そうだったけれど。

 

母が自分の事業を始めてからというもの、両親ともにさらに忙しくなり、家族の時間というものはめっきり減りましたが、就学前は、親と過ごす時間がある程度あったように思います。父は平日はほとんど家にいなかった記憶ですが、土日や平日の夜に父と寝る時間が好きでした。

うちは、そこまでイベントごとを楽しんだり、行事で盛り上がったりするような家庭ではないような気がしていますが、まったくやらなかったわけでもありませんでした。

ひそやかでも、七五三を祝ってくれたし、クリスマスもそれなりに楽しんでいたように思います。

 

クリスマスの時期になると、クリスマスツリーが入っている、埃かぶった白い箱を物置から出して、オーナメントと白い綿毛と電飾をツリーに絡ませて、サンタさんにほしいものをお願いしていました。

 

サンタさんの存在を強く信じていたわけでもないけれど、「なんでかいつもきてくれる」くらいの認識で疑うこともそこまでしなかった私に、2歳上の兄が、

「お兄ちゃんはサンタの正体を知ってる。お父さんだよ。だってね、この前お母さんが電話してて、『誰と電話してるの?』って聞いたら、『サンタさんだよ』って言ってたのに、電話に表示されていた電話番号がお父さんの携帯電話の番号だったから、サンタはお父さんなんだよ」

と教えてくれたのは、いい思い出です。

 

他にも、4歳か5歳くらいの時、クッキーが大好きだった私はサンタさんに「クッキーがたくさん食べたいです」とお願いをしました。

25日の朝に目を覚ますと、私の枕元にクッキー缶が2缶あったことは、これまでのクリスマスの贈り物で最も忘れられないものとなりました。

でも、うれしくてうれしくて一人で食べたかった大事なサンタさんからのクッキー缶を、開けた瞬間に家族みんながつまみ始めた時は、怒りで泣き喚いて、「わがまま」「こんなにあるんだから分けるくらいの気持ちをもて」と家族全員から怒られたことも、同じくらい忘れられない悲しい瞬間でした。

ただ、この悲しさは傷とはまた別物なのだと思います。一人だけのクッキーにしたかったことを責められたことは当然少し傷になったと思うけど、それでもこれは家族との思い出で。だから、家族といられなくなった悲しみや、親が忙しくて話を聞いてくれなくなった悲しみに比べたら、少し愛おしさが残るような、そんな悲しい思い出です。

 

家の近くのおもちゃ屋さんに行くのも、家から一番近いトイザらスに行くのも、クリスマスの時期は他の時期よりやっぱり特別だった気がします。

デパートに行くと、おもちゃ売り場全体が、他の時期よりもちょっと浮き足立っているような感じがしたし、街中に電飾が増え、讃美歌やクリスマスソングが流れ、みんなが他の人を思って贈り物を考えたりお手紙を書くこの時期が、いつもたまらなく好きでした。

過去形で終わっているのでもなく、今もです。

 

 

ちょっと浮き足立っても、クリスマスだから、という理由で許されるクリスマス。

誰かを想って何かをしてみても、クリスマスだから、で重く捉えられなくて済むクリスマス。

 

ハワイ大学の図書館には、今、クリスマスツリーが中に飾られていますが、それよりも、図書館のカウンターにしれっとぬいぐるみが置かれているのが好きでした。

ハワイ大学図書館カウンターにある犬と亀のぬいぐるみ

犬には、トナカイなのかよくわからない赤いカチューシャがつけられていました。

赤いカチューシャをつけられた犬のぬいぐるみ
黒い上着を被せられたカメのぬいぐるみ

かわいい。

個人的にはずっと置いていてほしいけど、クリスマスだから置くことを許されたのでしょう。

 

パンダエクスプレスに置かれたぬいぐるみたち

これは、学校にあるパンダエクスプレスに置かれていたぬいぐるみたちです。

ぬいぐるみがたくさんいます。

こんなにもぬいぐるみが表に出てくる季節は、クリスマスなのだろうと思います。それも、クリスマスが好きな理由です。

 

手紙を書くこととか、ぬいぐるみと暮らすこととか、誰かを思って買い物をすることとか、ちょっと派手な電飾で街を彩ってみたりとか、そういう、私が好きなことを、世間が盛大に促してくれるクリスマス。

私の好きなことをやる、最高の言い訳を与えてくれるクリスマス。

 

でも、何より、人生が始まってすぐの頃に経験したクリスマスの思い出が、きっと自分の中で良いものだったから、私はクリスマスが好きなんだと思います。

 

 

私の両親は今や離婚しているし、私と兄は昔はとても仲が良かったと思うけど今はほぼ絶縁状態で、私は祖母からあまり好かれなかったし私も祖母があまり好きになれなくて、母親ともなぜかいつもうまくいかない。父とは、宗教観とコロナがきっかけで、連絡は取れるけど対面で話せないトラウマができてしまいました。

そういうわけで、幼かった頃と、今の私の家族のありようはまったく異なってしまったけど、でも、あの頃、家族4人で、クリスマスをともに過ごす思い出があったことが、家族との思い出が少ないような気がしてしまう私の心の中にかすかに灯っています。

 

そのことを、今日、友人とクリスマスについての話を少ししている時に思い出しました。

 

 

母は、きっと自身の経験から、私たち子どもに、"よい教育"を受けさせようと必死になってくれました。

そのおかげで今の私があるのでしょうから、そのことを責めるつもりはないですが、子ども3人に"よい教育"を施そうとするのはあまりに大変だったことでしょう。

だから彼女は人の数倍も必死に働いていました。

そのおかげで、つまり親がそうやって必死に働いて作ってくれたお金があったから私たち家族はこれまで生きてこれたのだけど、だから本当は何も言ってはいけない気がするけれど、私は家族で過ごす時間が、何よりももっと欲しかったです。

経験を買うなんて言葉もあるけれど、家族と過ごし、談笑する経験が、私にとってもっとも買いたい経験です。買えることもない、でも欲しくてたまらなかった経験です。

仕事でいつも怒っている母にビクビクしながら過ごすよりも、弟を溺愛する祖母に好かれぬまま家で一人ぼっちでいるよりも、誰かと楽しくご飯を一緒に食べる時間が、学校や塾であったことを話す時間が、一緒に時々出かけたり、宗教施設じゃないところに旅行をする時間が欲しかった。

 

お金よりも家族との時間が欲しかったと言っても、じゃあお金があまりに足りない状態で幸せになれるかと言われたら、それだって難しいこともわかっています。

人種という、勝手に背負わされた負い目があったからこそ、経済的な理由のせいでさらに私たち家族が傷つけられることがないように、きっと親は親なりに考えてくれたのだろうともわかります。

ただ、家族での思い出が、それ以降よりも確実にあった幼少期が、今の私の温かな光になっていることは確かです。

 

私はどうやらこれまで23万時間以上を生きてきたらしいですが、クリスマスを親と楽しみ、愛おしい感情を持つことができたのが、この人生でたった数時間だとすると、家族と過ごした良い記憶のクリスマスは、人生の0.0025%ほどの時間でしかありません。

しかし、数にするとなんでもないような時間が、とてつもなく大きく残ることをこの自分は知っていて。

ああいう時間がもっとあったら、と思わずにはいられないけれど、もう大人になってきたから、それを悔いても、あの日々が戻ってやこないことを少しずつ受け止められてきた気がします。

 

今までは、そんな日々が戻ってもこないのに、そういった日々が過ごせなかった家族に対して、私も不満や憎悪の感情を強く持っていたと思います。

別に、今もまったくないわけではありません。ちゃんとあります。今だって悲しいし、すごくすごく悲しかったよって、親に思っています。

そういう時間が欲しかったしいまだにとても望んでいる自分がいることはわかっていて、つまりは私は、誰かと生きたり、生活を楽しむという、そういうことを何より大事にしたいのだと自分で知っています。

知っていたのに、外に求めてばかりで、与えられなかったことを言い訳に、自分で自分を満たすことに注力できませんでした。

自分で自分を満たすという言葉が、ほんの数週間前までは苦手だったけど、ここ最近、少しずつ自分に落とし込みたい言葉になってきました。

 

 

社会が求める人物像とか、評価軸とか、そういうのに合わせるのに必死で、そういうもので安心したくて、だけど、そうやって動いていくことがことごとくうまくいかなくて。

うまくいかないことを身体は知っているのに、頑張りたくて頑張りたくて、頑張ってみたら身体が悲鳴を上げて頑張れなくなって、何も続かない人生を送ってきてしまいました。それでも頑張りたかった。

頑張りたいのに頑張れないことを恥じたりもしたけど、でも結局、そういうものを自分に取り入れようとしても、私はそういうことで温かい気持ちを持てる人間じゃないじゃん、と、クリスマスと家族にまつわる記憶を今日、呼び起こしながら気づいたのでした。

 

誰かと家の中でコミュニケーションを取って生きること、誰かと一緒に食事をする生活があること、互いを尊重しながら共に存在を認め合いながら生きてみること、生活をきちんと自分なりに守り楽しんでみることを忘れないで生きること、そういう私がこの先の人生で大切にしてみたいことが、これまでになかったからこそ、そういう生を自分で創り上げてみたいです。

そういうことを実現していきたいときちんと思い抜くことが、自分で自分を満たすとか、自分を幸せにする覚悟を持つとか、そういうことなのかなと思うようになりました。そうしたら、こういう言葉に自分なりに意味を持たせることができて、受け入れられる言葉になりました。

 

 

 

最近、友人に、「話が五転くらいする」と言われました。

このブログも、期せずしてではありながら、そうなってしまい、クリスマスの話だと思ったらなんの話をしているんだと誰かに思われても当然な文章が出来上がってしまいました。

でも、私が私の大切にしたいものを認識し、それを本当に大切にしたいんだと思うまでに、今まで書いたすべての言葉が、必要でした。

 

ブログというものを書く時点で、他者の目を意識しながら書いている側面は確実にありますが、たった一人でも他者が見てくれるなら体裁もちゃんと考えてみよう、というモチベーションとして機能してくれているのが大きくて、この書いていることのすべては、今の私の忘れたくない感情や思いを整理し、私を認識するために私が必要としていた言葉たちでした。

考えるために、忘れないために。

そして、考えたことを手から身体に取り込ませるように。

 

私の大好きな先生が開講している、喪失を一つ大きなテーマに掲げる講義のある回のメモに、「問い続けたいから、自分たちの言葉で書く」という文が残されていました

きっと私もそうです。

問い続けたいから、話が八転しようが九転しようが、褒められる文章じゃなかろうが、書こうとするのだと思います。

 

私はいつも何かを書く時、過去の私や未来の私に手紙を書くつもりで書いています。いつも、書きながら思い浮かんでいるのはいつかの私です。

これを読んだいつかの私が、よく頑張ったねって言ってくれることが、私の何よりもの期待であり、望みです。

自分のためメモ(ファシリテーション)

毎週、哲学対話に関する授業がある。
毎週、週に4回は対話をする。

こちらにきてから、英語での哲学対話を知るようになってから、対話ほどしんどいものはないと思うようになった。

講義は、その場で内容を理解することができなくても、自習でなんとか追いつける。

対話においては、その場で問いが決められ、その場で皆の話の流れからその人が今思いついたことを話すのだから、流れを追うことが本当に難しい。

 

まず、大抵の場合、皆から出た問いを理解することさえ難しい。どの問いを対話の出発点として決めるかの投票の時間までに、出たすべての問いの意味を理解することが難しい。

 

例えば以下、あるときの授業で「写真」がテーマだった時の、一部の問い。

 

1) How might a staged photo do better at presenting the truth of a message in a photo? Can it still be considered a truth if its not candid?
2) How does the method/technique of field dissertation influence the scale and focus of my inquiry of my perception of truth?
3) Do photographs necessarily objectify place? Is an additional process needed to complicate this objectification?
4) At what point is the experience of a photograph a function of the photography: and at what point a function of the viewer

 

一発でその文章がわからない。

あと大体手書きなので、そもそもアルファベットを追うことから時間がかかることもある。

 

ああ、やっと書かれた文字たちを読めた(理解ではない)、と思った頃には投票が始まる。全部を理解できていないまま、なんとなく気になるかも、と思ったものに投票する。あとで、もうちょっと時間をかけて問いを見返すと、「あぁ全然こっちの方が問いたい(考えたい)やつだった」と思ったりもする。

 

問いに必死で食らいついている間に問いが決まっていき、対話が始まる。

 

私からすると、半分くらい何言ってるかわからない話もあれば、大体何言ってるかわかるような話が出てきて、「なるほどね、これを喋ってるのね」と思った瞬間、また何を話しているかわからない話が出てきて、特にその人のパーソナルな体験の話になればなるほど、ついていけなくなったり。

対話に参加、という段階にさえ私は踏み込めず、人の話に耳を傾けたくても、それが叶わない。自分が話せないこと以上に、人の話を理解することができないというのがこんなにもつらいのか、と、ハワイで哲学対話に触れて、言葉の難しさや対話の難しさをようやく体感した。

よく今まで対話できてたな、成り立っていたな、と、日本で参加したり行った哲学対話たちを奇跡のように感じる。

 

日本にいた時から、言語偏重すぎる対話のあり方をちょっと見つめたいな、と思ってはみたものの、実際に自分が参加するときに日本語での哲学対話にそこまで根本的な苦しみを覚えたことがないせいで、やり切れてしまった。不便を感じてないからと、そのまま来てしまった。

で、こちらに来て、他者との意思疎通のレベルが落ちた自分になることを体験してみて、対話ってこんなにつらいんだ、とちゃんと感じられるようになった。

なのに週4回も対話の時間がある。

毎日のように逃げたい、と思いつつ、何も話せなくても授業に参加することがまず大事、と奮い立たせて、参加し続けた。

対話そのものはつらいけど、対話の授業に参加している人やその授業を開講している先生たちは皆素敵な人たちだったから、ただその縁を繋ぎ続けるためにも参加し続けた。

 

 

 

今日、はじめて、こちらで哲学対話のファシリテーションをした。

 

この学期も半分以上が過ぎ、哲学対話(正確にいうと、philosophy for children = p4c)に初めて触れる学生たちも、もうさすがに慣れた頃だろう、ということで、先生から、「来週からはみんながファシリテーターになって対話の場を回してみてくれ」と先週にお達しがあった。

ミッドターム(中間時期)が過ぎたら学生がファシリテーションをやる、というのは結構前から予定はされていて、でも「絶対無理」だと思ったし、その時が来てほしくなかったのが本当に本音。そもそも、みんなの対話の流れにいつもついていけない人間が、何ができるんだ?と思うと怖くて怖くて仕方なかった。

なんとか先生が忘れてくれたり、他にやることできちゃって、なあなあになって、気づいたらファイナルの時期、みたいになってはくれやしないかと願っていた。普通にちゃんと覚えていた先生。そりゃそうか。

 

元々は今日の授業でファシリをやるのが自分の予定ではなかったので、私も準備をしてきたわけではなかったが、今日やる予定だった子が急にこれなくなり、代わりにやってくれないか、と授業まえに連絡があったので、急遽ファシリをやることにした。

 

以前から、あんなにファシリをやることが嫌でたまらなかったのに、今日を迎えたら、「まあやるしかないのなら早めにやっとくか」と心が決まった。たぶん、学期初めの頃よりはちょっとはクラス(コミュニティ)に慣れたのもあるし、まあみんなが何言ってるかわからなくてもファシリはまとめる必要もないし、黙っていても場が壊れることはないという安心感をクラスに持っていたからできたのだと思う。

 

ファシリをやる上で、この今までの自分自身の経験をどうしても生かしたかったし、言葉ありきの対話をちょっと変えたくて、対話前に発言禁止のジェスチャーゲームをした。

これが私の今日のprompt(みんなの考えるきっかけとなる対話前のお題のようなもの)。

Gesture Game!と書かれたスライド

 

ずうっと前から、アナ雪2の序盤に出てくるジェスチャーゲームをやりたかったという個人的な願望もあったし、言葉が話せない、意思疎通にバリアが生じるということを、体感しつつもある程度楽しめる形にするのがジェスチャーゲームくらいしか思いつかなかった。

 

youtu.be

 

今日の授業は、出席を取らない分、みんな結構出席がルーズで、何人が今日来るのか、何人と対話することになるかわからなかったため、3人でも4人でも6人でも8人でも12人(12がクラスの人数)でも対応できる24個のお題を考えておいた。

 

結局、今日は先生合わせて全部で10人が出席だったので、5人・5人でグループを分け、私以外の4人でジェスチャーゲームをしてもらった。今日私のチームにいた人は全員男性で、「これちゃんとみんな楽しめるのか…?」と不安に思いもしたが、やってみたらわりとみんな苦悩しながら楽しんでいたように見えたし、何より答えを知っている私が一番楽しんでしまった。

 

ルールは簡単、言葉禁止でジェスチャーだけ、と指定。
時間を測って競争する形にもできたけど、単純に測るのが面倒くさいので競争ではなく、ただやるという形。

言葉を発さず、ジェスチャーのみで!と書かれたルールスライド

 

ジェスチャーのお題は色々。
24個を4人で回すのは多すぎると始めて気づいたので、今日やったのは、24個から勝手に選んで、

1. ミッキーマウス
2. パイナップル
3. 蛇
4. ハリーポッター
5. 波
6. 蜘蛛
7. コンパス(円を書く文房具)
8. かぼちゃ

ジェスチャーゲームをしてもらった。ひとりにつき2回ジェスチャーをする。

全体で60分くらいの時間があって、最初の15-20分くらいでジェスチャーゲーム、そのあと5分で問いだし。

問いを出しあったあとに、ルール説明(5分)。

「他の人の話に耳を傾ける」というルールと「他者の人格否定はしない」という2つだけ。

ちなみに、「他者の人格否定をしない」をなんと言ったら伝わるかわからず"Please don't deny others' personality"と最初書いたけど、みんなのアドバイスによって、"Please don't attack the person"とか"Please don't deny others' perspective/identity"の方が伝わる、と教えてもらった。

哲学対話始める前にルールとツールキットについて書いたホワイトボード

対話の潤滑油となるツールキット(問い方のコツみたいなもの)は説明はせず、ホワイトボードにあらかじめ書いただけにした。

哲学対話のToolkit

そこから問い決めをして(5分)、残り20分くらいでさらっと対話に入っていった。

 


ジェスチャーゲームについての話に戻ると、
蛇を、アダムとイブの物語から表現しようとしていたり、ハリーポッターを音から表現しようと"Hair"と"Potter(陶芸家)"を表して当ててもらったりしているクラスメイトや先生を見て、みんなすごく独創的で、感動してしまった。

ジェスチャーのお題を考えながら「私だったらこう表現するな」みたいな想像と全く違うものをみんなそれぞれ表現するから、「別に対話をせずとも、こういうものから人との差異とか他者と違うからこその面白さって感じられるな」と思うなどした。

 

自分の頭や身体で「それが何か」をわかっているというのに、「それ」を自分の直感的に思う形で伝えられない、伝えてもみんなが誤解をしてくるという言葉の壁ゆえの苦しさを簡単に再現できるのがジェスチャーゲーム。

だいぶ意図的な使い方をしたけど、このゲームの後は「コミュニケーション」を対話のテーマにして、それぞれが「コミュニケーション」から思いつく問いを出してもらって対話をしたのが今日の哲学対話。

 

4人しか私以外にいなかった対話だったけど、たぶんみんな楽しんでくれた気がするし、この導入からやっていいと思えたのも、Philosophy begins with playsなマインドを授業を通して体現してくれた先生の影響があったからだと思う。

 

本当に不安だらけだったけど、自分が言葉が不自由になる土地で、哲学対話のファシリができたという成功体験が一つ積まれました。本当によかった。