(前編)「みんなでご飯を食べたい」私が求める人とのつながり

前回のブログを書いてから1ヶ月が経ったとはてブからメールが来た。

毎日のようにブログにこんなことを書けたらと思っていたけれど、落ち着いたら書こうと思っているうちに、1ヶ月も時間が過ぎていた。

進級がかかった数学の試験や、最終授業に近づくにつれてや焦りを感じ、ブログを書くということが私にとって贅沢な時間の使い方だと認識された結果、後回しになった。

 

 

先週末、NHKカルチャーセンターの青山教室で行われた、伊藤亜紗先生のご講演に足を運んだ。

 

冒頭で、この講演は「利他」を身体論の観点から考え論じる内容と紹介された。

亜紗先生は、人が身体を持っているがゆえに直面する言葉にしにくい部分(身体と心の反応や感覚)を大事にしつつ、言葉を使って、その身体だからこその世界との触れ方を研究している。

もともと、偶然与えられた身体や性質を持つ「自分」ではない存在が見ている世界に興味があり、生物学に進みたいと思っていたが、大学入学当時、学問的なトレンドでもあった生物学の情報化(DNA解析など)の流れを見ていると、そこから己の知りたい偶然の現実を理解するための学びが得られるとは思えず、美学の道へ進んだという。

そこから、人間の身体と向き合う研究を続け、そうしたこれまでのご経験から、身体と利他についての考えを共有してくれた。

 

先生のご著書、『手の倫理』でも紹介されている話でもあるが、
他者とのコミュニケーションにおいては、ある一方が聞き手に己にあるメッセージを語りかける「伝達モード」と、発信者と受信者の境目が曖昧で、双方のやり取りが行われる中でメッセージが生成されていく「生成モード」の二つのモードがあるとする。

 

生成モードのコミュニケーションには、”時間差”が存在する。
お互いが一方の発する言葉や反応や態度をみて自分の在り方も調整するというその時の内にある時間差、あるいは、その時のコミュニケーションの時間を超え、その人に必要な時間を経て、偶然のようにその時には想定されていなかった受け取り方を一方がするという時間差がある。

その時間差の余白を持たせることが利他であり、反対に利他的な行為には、相手の可能性を引き出す生成モード的なコミュニケーションがあるとも言える。

 

利他的な行為を受け取れる人がそう多くないのではないか、というのが、亜紗先生がセンター長を務める、未来の人類研究センターの調査でも見えてきているという。
その理由の中には、自己肯定感の喪失のために「自分が他者の厚意を受け取るに値しない」といったものや、人間関係を交換原理で捉えてしまうがために「してもらったことと同じだけのことを返せない」というプレッシャーさえ感じるということもあるようだった。

そうして、人々が他者の利他的な行為をキャッチできないとなると、社会全体の利他も減じてしまう。
だからこそ、どうしたら自己肯定感を高められるか、どうしたら交換原理でないところで人と関われるのかが、他者と生きる上でのテーマになると亜紗先生は私たちに語りかけてくれた。

 

これが、かなり省略した講演概要だが、講演の場はとてもいい空間だった。

構図としては、先生が主に1時間半弱お話しし、参加している人たちは椅子に座って聞いているので、一見伝達モード的なコミュニケーションの場に見えるかもしれないが、私は一切そう感じなかったし、きっと他の人たちもそう感じていた人が少なくないのではないかと思う。

最後に「語りかけてくれた」と私は書いたが、亜紗先生は、私たちの反応と呼応しながらその場で伝える時の温度感や話し方を調整してくれていたような気がしている。

私は前の方に座っていて、多くの人の反応を見ていたわけではないが、聴く人たちは講演に聴き入っていたように思う。
先生の講演から流れ入るいくつかの知恵や誰かの経験を通して、自分とふれ、向き合うことができるような場だった。穏やかで、優しい風が流れていた。

 

 

亜紗先生の講演のあと、聴講者からの質疑応答がいくつかあった。

その中の一つが、伝達モードが多いような職場に生成モードを増やせたらと思いながらも、同僚のプライベートな話題にふれることも、身体的接触も難しい公的空間で生成モードを増やすためにはどうしたらいいかという質問だった。

 

 

後編に続く(※後編はまだ公開していません)

 

freiadel.hatenablog.com