(後編)「みんなでご飯を食べたい」私が求める人とのつながり

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前編の続きです

 

 

 

そこで亜紗先生は、むかしJTに勤める人と話した際に、喫煙所が生成モードの場だったということに気づいたという話をしてくれた。

喫煙所の中でのコミュニケーションでは、貸し借りや、肩書きの関係ない水平関係が生まれやすい。

しかし本業と全く関係ない場所でもなく、案外そこで大事な情報交換があったり、普段の関係とは別のコミュニケーションや、仕事に関わる新たな関係が生まれたりする。

これはまさしく生成モードだ。

一方的に決められたコミュニケーションだけではなく、その場にいる人から、その場にいるということが起点になって、ゆるやかに繋がりと話題が生まれていく。

そうした場が喫煙所に置いて生まれるということは、喫煙者なら共感することもあるのではないか。

私は非喫煙者だが、フリーターをしていた時、同僚を眺めていると、喫煙者同時のつながりから何か生まれているような気がして、羨ましがっていた記憶がある。

 

普段はその場で決められている役割や、肩書きなどに応じたコミュニケーションを取らなくてはいけなくとも、それらが一旦取っ払われて、一つの目的をこなしているうちにコミュニケーションと場が生成されるということは、私が長年強く求めているものでもある。

 

 

私はまだ今学生が本分であるものの、いつかは働くことを考えねばならない。

というか、いつかのフルタイムを想定しなくとも、現在の学生でありつつパートタイムで働くことも経済的に必要である(働くことへの問いはまた別の機会で深めるとして)。

 

どんな職場なら続けやすいか、どんな環境が働くことへのストレスをより軽減してくれるかを考えた時、その一つを言葉にするならば「みんなでご飯を食べる文化(環境)があるところがいい」と気づくに至った。

 

昔働いていたある制作会社は、時間的にも身体的にも精神的にも当然大変なことはあったけれど、ランチを仲のいい同僚と食べに行く機会はそれなりにあったし、撮影の時に、頼んだケータリングサービスのご飯を制作陣と食べる時間もあった。


当然、芸能人やクライアントと食べるわけではないので、大勢で食べるというわけでもなかったが、その場ではある目標を共にしている制作陣でご飯を食べるその時間が私は本当に好きだった。

 

必ずみんなで一緒に行かなければならない、というような決まり事になってしまうのは不自由で苦しいけれど、ご飯を誰かと食べに行ったりその時間を共に楽しむことがやりやすい環境は、私にとってはありがたかった。

 

考えてみれば、とかく私は、昔から給食の時間や、食堂が好きだった。

 

私が誰かを引き止めたり話しかけるには何か理由がないといけないと思ってしまうことがあるが、食事を理由に場を共にするだけで、何か話すきっかけがたくさん生まれてくるような感じがして、それに安心する。

 

 

昔から、とにかくいつも寂しくて、できるだけ対等な関係として人とつながりたい欲求が強かった私は、人とつながれる何かを常に試してきたように思う。

オンラインゲーム、バスケットボール、マッチングアプリ、ビジコン(みたいなもの)、SNS、大学入学、大学の研究会ショッピング、哲学対話…

 

考えてみれば、中でもバスケットボールや哲学対話など、身体的な場の共有を介して行為をしているときは、自分を忘れることができた。

 

私は、つながりたい時に誰ともつながれない寂しさそのものが嫌というよりも、自分が一人でいるのが苦しいからとして一人でいるためにその苦しさに焦点が当たりすぎて、常に自分が浮かび上がってきてしまうことで孤独を意識させられ、つながりのない自分でありそうな気がしてくること、そしてそれによって無力さを感じることがとても恐ろしかったのだ。

 

だから、自分が自分であることには変わりがないけれど、自分の確固たる意志や感情が意識されず、自分が操作しているわけではないけれど、その場によって自分がつくられていくくらい、自分が曖昧になるけれど確かにそこで何かを感じる自分がいる、というような状態に安心と落ち着きを覚えるのだろう。

 

けれど、バスケットボールも、哲学対話も、人と場所と物が必要だったりして、思い立っていますぐできるものではないことも多い。

反面、「食べる」ことは、いつかどこかでやらなければならない(ここではpro-anaの人や宗教上断食を行う期間にいる人のことは想定していない)。

食べ物を提供するお店が近くにあれば、行為するための準備もそうはいらないし、たいそうな人数を集めなければいけないわけでもない。
余程クラスの異なる食事環境に行かない限り、個々の歴史や経験によってルールがわからない人がいるという配慮もあまり必要ない。

食事をする場さえあれば、つながることができ、そしてまた会話が生まれることもよくあった。

 

私が食堂のある場所、食事が出る場所が好きだったのは、大きな努力をしなくても、つながりが生まれていくことに安心ができていたからなのだろう。

 

 

高校を卒業して、大人になるにつれて、周りの人との生活リズムや食への思いは個々に異なることや、食べていくにはそれなりにお金が必要なのだと身をもって実感するようになって、私が人生の中で切望している、食を通して人とのつながりを持つということは、私の見えている社会ではそう簡単ではないのだと学んだ。

 

 

 

亜紗先生は、「どうしたら自己肯定感を高められるか、どうしたら交換原理でないところで人と関われるのか。それらを考えることが、これから先、人と共に生きる上でのテーマになるのではないか」と言って、講演を締めた。

 

 

食べること、食べ物がこんなにも貨幣経済のうちにからめ取られてしまっている中でそしてまた、昨今の感染症社会の中で、私は、私たちは、人とどのようにつながりを持ち続ければいいのか。

 

自分のアイデンティティが収奪されるわけでもなく、かといって自分を他者に厳格に規定されることもなく、ふらっとその場に立ち寄れば、何かしらのクッションが発露となって人とのつながりの中にいる自分がいることを知ることもできるし、いる時間や居かたをとやかく言われることなく、気軽にさよならも言える。

そうして、またその場ではない場で自分を生き、疲れたり、言葉にできないけれどつながりを求めたくなった時、気軽にまたくることができる。

 

そんなつながりの場所を、私はどこに見出しているのだろうか。

そのような場所は、本当に十分に存在しているのだろうか。

ないならば、どこに、どのように、どうやってつくればよいのだろうか。

 

 

すぐに答えは見えないだろうけど、まずは、なるべく公共の食の場所にも足を運んでみようと思う。食の場のあり方や、自分の居かた、他者の居かたをもっと観察してみようと思う。

そう考えるに至った、素晴らしき講演と、私自身の思いを書き残しておきたかった。