I NEED MY FAM

 

■失われない

 

どんなことをされても、どんなことを言われても、どんなことを私が誤ってしてしまっても、私の大切にしたいこととか、私が守りたいと思うものや誰かとの関係性(ものや関係性そのものより、そのものや関係性を大切にしたいという私の思い)が失われるわけでも毀損されるわけでもないんだ、と思うことにした。

思うことにしたというか決めてみた。

決めるだけでよかったのか、と思った。決めるまでには時間がかかったけど。

 

気分が昂ったり、落ち込みやすかったり、いろんな私がいて、いろんなモードでいろんなことするけど、どこかに失われない私がいるなら、どんな自分が出ても大丈夫だと、この1週間で思っている。

これからの人生は、それが真であったと証明するために生きてみたい。

 

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■寂しさが止まらない

 

4年前の6月6日に、自分の大学(キャンパス)に哲学サークルを設立してみた。

どうしてつくったの?と数ヶ月に一度くらい誰かに聞かれるが、「私が、対話できる場や仲間がほしかったから」と答えて終わる。

他の人がどうサークルをつくっているか知らないけど、私が必要だったから、そうした。

寂しいという思いを抱えすぎてつくった。

本当にそれでしかない。

 

結果どうでしょう。出会えました。

 

でも、仲間と言える存在に出会えた今でも、寂しさがずっとある。

サークルに限らない。

 

大好きだった恋人と出会えても、この人と出会えてよかったと思う師に出会えても、毎回刺激を与えられる学びばかりの授業を聞いていても、寂しいと思ってしまう。

ずっと寂しい。

 

寂しいと思いすぎている利点があるとすれば、どんな人の寂しいにも寄り添えることくらいだろうか。

そんな自分だから、大事だと思う相手にはいつも心の奥底で、「私の前ではいくらでも寂しいと言ってくれ。わかるから。わからないけど本当にわかるから」と念じている。

でも寂しいってそもそも思わないのか、思っていても言う相手が私じゃないのか、寂しいという言葉を発するカロリーが高いのか、「ねえ寂しいよ」という人をあまりみたことがない。

だから、みんなすごいな、と思う。そしてまた、誰かと寂しいを共有できない事実に、さらに寂しいと思い続ける。

 

私が寂しいから、この場を使うね、とサークルのメンバーに思う。

私が寂しいから、寂しいと言い続けるけど、いつも寂しいトークに付き合わせてごめんね、とも思う。

その代わり、あなたの寂しいをいつでも受け入れる懐だけは同時にあるから、寂しくなったら時々頼ってね。

こんなところでひっそりと気持ちを置いておく。

 

友人とのLINE

 

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■重くなっちゃうよ

 

ある友人に親切にされて、「ねえそんなことされたら好きになっちゃう、重くなっちゃうよ」と言ったら、「ねえなんでそんなこと言うの?いいんだよ」と言われてしまった。

いいのか、と思った。いいのか?本当か?とも思った。

 

でも、確かに、なんで、と彼女が言うのは正しいと思った。

誰に対しても、あらかじめ線を引いて、これ以上好きにならないようにするね、と言うのは私で、傷つかないように、寂しくならないように、と勝手に私が決めている。

だからどこかで寂しさが爆発しそうになった時、「誰も頼れない」とか勝手なことを思う。

 

自分から線を引いておいて、それはちょっと周りに失礼じゃないか、と感じたし、自分から重くないようにと、相手の負担になるかどうかを私の基準で私が先んじて決め、結果誰にも体重をかけないようにした結果寂しがってるのは滑稽だと思った。

 

ならば、嫌がられたり、今それできないよ、言われない限り、ちょっとした片思い性が生じていても、好きって強く強く思う勇気を私は持たないといけない気がする。

相手も、自分の状況や気持ちを言えるだけのマインドや大人性はあるはずだから、ずっと慮ってるつもりで相手を見下すような真似をしないで、人間であることを、つまりはその人の中にある理性と知性を信頼して、好きな人たちにもうちょっと体重乗せてもいいのではないか、と今は実験中。

 

いやだったら教えてください。

 

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■期待

 

ある友人が、私の誕生日を迎えた深夜に、4分を超えるビデオメッセージを送ってくれた。

人生で初めて誕生日ビデオメッセージをもらって感動してしまって(ちなみにその後、他の友人もビデオメッセージをくれた)、伝えたい感謝や想いはたくさんあったのだけど、私ももらったものとなるべく同じような形でこの感動を返したいと思い、「ビデオレターで返すね」と伝えたまま、1ヶ月半以上が過ぎてしまった。

なんとなく機会を伺い続けていたのだけど、なんとなく機会をつくれずにいた。

 

伺い続けたタイミングが来たと思える瞬間があって、その時に私は「今だ!」とビデオメッセージを撮り、友人に遅くなったお返しのビデオレターを送る。

 

「ビデオレターで返すね」と言った言葉は私にとってまったく軽い言葉のつもりはなかったが、時が経ってしまえばしまうほど、あの言葉を軽くしてしまっているな、と自分なりに反省しながらもいた。

軽い言葉にしてしまう結果をつくり出していながらも、私は絶対にその友達にビデオで伝えたいことを伝えようと思っていたので、こんなことを言うのはずるいかもしれないけれど、あれは嘘じゃないの、本当なんだよ、とその人のいないところで、その人に空で語りかけた。

 

忘れないでほしかった。期待していてほしかった。

ただ、思ったより時間が経ってから送り返すのは、もはや私も緊張してしまった。

もうその人は私が言った言葉なんてもはや忘れているのかもしれない。

ビデオが送られてはじめて「そんなこともあったな」と思われるくらいなのだと思っていた。

 

それでもビデオを送る。既読が付く。

 

その過程で私が思ったのは、

「ごめんね、もう今さらすぎるし、このタイミングでいきなりビデオレター送っても、誕生日にもらったビデオレターの嬉しさ抱えすぎている重い人間だと思われるかな。ああ、怖いな」

だった。

送った矢先に、既読がつけばついたで緊張する。

 

 

それからそんなに時間が経たないうちに、感謝の言葉と共に

「あなたのことだから、きっとどこかのタイミングでお返しビデオをくれそう、と密かに楽しみにしていたよ。」

という言葉が送られてきていた。

 

つい先ほどまで持っていた緊張と恐れが宙に舞った。

 

忘れないでいてくれた。

私という存在との関わりがあるからこその、わたし性を知った上で、期待してくれていたことを知った時、いや、その人にとってのこの言葉が、私のいう「期待」と合致するものかはわからないけれど、忘れないでいてくれたと知った時、私は「期待してくれていたんだ」と思ってしまった。

忘れないということがほのかな期待だったのではないかと自惚れた。

 

 

よく、サイバー文通をする、まだ出会ったことのない人がいる。

その人とのやり取りの中で、「時々見そびれたりお返事が遅くなったりできてない時もあってごめんなさい」と伝える。

 

その人は、

「返事はいつでもいい。でも、あなたにはいつか届くと信じています。」

と私に言ってくれた。

 

また別の期待だと思った。

ただただ、うれしいという気持ちを、それだけかもしれないけれどそれだけを強く感じた。

 

 

「人に期待しない(で、そんなことをするくらいなら自分を律するべき)」というような文言が昔から苦手だった。

どうしたって私は自分にも他者にも世界にもタイミングにも期待をしてしまうから。

 

人に期待しないことが重要な場面があるのもわかる。

誰に、そして何を期待するかのあり方で自らの気が落ちてしまうくらいならばそれをコントロールした方がいい、学ぶべき盤面があることも理解はできる。

それでも私は、ベースとして人に期待をしてしまう。

それが自分にあまりいい結果をもたらすばかりでないのはもうわかっている。

できることなら人に期待をしないでもっと凪のような状態を保てる人間でありたいとも思う。

 

 

数年前、二人の友人が「あなたは期待と絶望をどちらもしっかりやるよね」と私に言ってくれた。

それを言われてからさまざまな出来事を思い出すと、確かにその言葉は自分のあり方によく当てはまっているような気がした。

 

私のあり方とは180°違って、ベースとしてまったく人に期待しない人、学びの末に人に期待しないでいることを身につけた人たちには心底憧れる。

憧れるほどに、私にはどうしてもできない。

 

最初に書いたように、失われない自分がいると信じ始められているから、その延長で、最近は、期待したいと思う人と、期待しない事物を分けてもいいのだとは思えるようになったが、やはりどこかで、わかりあいたいと思ってしまうような人には何かの期待をしている。

一年半付き合った大好きだった人に各所でブロックされてもなお、大事だった以上は、「10年後くらいにいつかばったりあって2分くらい話せる時が来たらいいね」と思う。

恋心の未練からではなく、しかし大事だったからこそ、その人がきちんと健康に生き、今よりもずっといい形で自分自身の生と向き合っている姿を直接知れる機会があることに期待している。

 

それほど期待度が何もかもに対して高いものの、私もあまり他の人に自分の抱える期待を見せないようにしたいと思ってしまうし、期待しているのがバレるのは恥ずかしいとも思うし、「重いよな、ごめん。気づきませんように」と思いながら期待をしているのだけれども。

 

 

誰かに期待する自分だからか、誰かからかけられてうれしい期待があるということを友人らとのやり取りで知った。

 

そこから、私って結構、期待されたい人間だし、期待されているという評価が目に見えると物事をもっと頑張りたくなる、浅はかさな現金さがあるのだな、とようやく気づかされた。

期待が重い、評価はきつい、という気持ちもある。当然である。

しかし、適切なフィードバックをくれる(私へのコントロール欲求ゆえのフィードバックではない、という意味での"適切")と信じられる、よきオーソリティ(※)がある人間にはいくらでも期待も評価もされたい。

それも事実である。

 

この特性を、自分の主導権を握られたくない他者にうまいように使われないことに気をつけたいが、私にとっての他者関係における充足感というのは、「期待してもいいし、ある程度期待される関係性の中に生まれるもの」だとわかった。
そうわかれば、もうちょっと満たされる時間というのを意識的に増やせる気もする。

 

私はあなたに期待したいしされたいから、たとえぶつかってでも話し合いたいし、会いたいし、時間を過ごしたい。

その意識がある人に会うこと、その意識を持たせてくれる人を大事にすることが、私が守りたい一つのラインなのだと思う。

 

 

だから私がこれから関わりたいと深く思う人たちは、期待したいしされたいと思っている人です。

でも、期待されたくないという人、期待されるのは荷が重いという人がいるのもわかるし、そういう状況な時があることもあるし、それくらいは感じ取れますので、負担になりすぎないように、あるいは私のこの志向そのものが常に負担になるなら引き際もちゃんと考えます。

 

 

 

 

※「よきオーソリティ」は、所属する研究会で先生が出した言葉で、教育を施す機関で友達の役割と先生の役割について話し合っていた時に出てきた概念。教師が、友人と違う形で学生や生徒に働きかけられるのは、あるいは被教育者に意義をもたらすのは、オーソリティ性ゆえであり、そのオーソリティとは、「評価ができる」ということ、つまり「評価の基軸をたくさん持っている」、さらにいうと、「人を見ながら、どこを見れば適切に評価ができるのかを考えられる」「評価の尺度がたくさんある、かつ評価の仕方に納得ができるということ」「豊富な知識を持ち、それを持ってして評価という行動ができる、運用ができる」と定義されていて、私はこの概念が今現在結構好きでよく使います