「死にたい」という気持ち(suicidal ideation)にはactiveとpassiveがあるとこっちに来てから知りました。
まあ日本語で言えばactive suicidal ideationが自殺願望、passiveが希死念慮に近いでしょうか。
activeは具体的なアクションプラン(何を使って、いつどのように自殺しようか考えている)がある場合を言い、なんとなく、ただずっと「死にたい」気持ちがあるという場合はpassiveだと言うそうです。
人生の長い間、passive suicidal ideation が支配してきた自分にとって、今さらそれをすぐに変えることもできなければ急に消えることなんてないのもわかっています。
なので隠す気もないし、でもいつまでもその気持ちを言葉に出していると、人に嫌われるだろうとわかるから言うのが怖くて(死にたいのにずっと人に嫌われているのを恐れているってなんか本当に変ですね)、ただやっぱり消せないので吐き出したくてそれにまつわることを少しだけ書きます。
今日、
「どうしてあなたがずっと希死念慮を持っているかよくわかった。対処していかなきゃいけない問題が多すぎる。それだと、人生を終わらせたいという気持ちにもなるよね」
とカウンセラーに言われて、「ああ、そうだな、死にたいというより『この人生を終わらせたい』んだよな」と思い直しました。
死にたいと終わらせたいは人によっては同義でしょうか。
でも私にとっては微かな違いがある気がします。今はその微かな違いをここで明らかにしたいとは思っていないし、人によってもその感覚は違うでしょうが。
「死にたい」と言ってしまったり、思ってしまうと、「じゃあ死ななきゃ」「死に対して何か行動をしなきゃ」という気になって、生き続ける自分にさらに罪悪感や卑しさを感じてしまうことがあるけど、20代に入ってからの自分の希死念慮は、どちらかというと「もう終わらせたい」が近いなあと思います。
カウンセラーさんは、「まだ終わらせるには早い、まだまだあなたは自分の未来に対しても自分の可能性に対しても、知らないことが多すぎるから(まだ続けるべき)」と言ってくれました。
まぁそれはそんな気がします。
「あなたが悩んでいる問題と同じような問題で悩んでいる人はこの世界にたくさんいて、あなたが死にたいなら、他の人も死ななきゃいけなくなる、でもそうじゃないよね」と言われた時は、そういうことじゃない気がするけど、と思いながら「まあそれは間違いでもないしな」と思い、うん、と答えました。
なんかもっと、明るく、希死念慮について話してみたいです。
ざーざー泣きながらでも、明るく。
「死にたい」と「終わらせたい」の違い、「死ぬには早い」と「終わらせるには早い」の違い、特段大きなものではないかもしれないし、違いがあったからとしてなんだということ話かもしれないけれど、ああ、なんかちゃんと違うんだな、とだけ思ったカウンセリングでした。
私の右手首にはセミコロンの小さなタトゥーがありますが、それの意味を聞いてきた友達に意味を伝えると、
「メンタルヘルスは超大事な問題だよね。
ホルモンとか化学物質とかが関係しているっていうけど、それだけじゃない。環境がどうしようもならないこともあるのにな。とにかく人生はマジでクソ。こんな最悪な世界じゃどうしようもないよな」
って言ってくれて、なんだか救われました。ちゃんとクソって思っていいんだなあって。
クソな世界を、クソな状況を、自ら変える努力をしないといけない、そう思わされてきたな、そういう圧力がちゃんとあったなと考えられました。
なんとなくその圧力に気づいていても、「治る努力をしなきゃいけない」「変える努力をしないといけない」と思うことに精一杯だったような。
でもさ、変える努力たくさんしてきたと思います。ちゃんと。やれることやってきました。
でも終わらせたいのだけは変わらない。だから努力至上主義とか自己責任みたいなのは間違ってるって自分もわかってきました。終わらせたい。
全然、遺書とかじゃないです。どんな思いでも書き残したいだけです。