自分のためメモ(ファシリテーション)

毎週、哲学対話に関する授業がある。
毎週、週に4回は対話をする。

こちらにきてから、英語での哲学対話を知るようになってから、対話ほどしんどいものはないと思うようになった。

講義は、その場で内容を理解することができなくても、自習でなんとか追いつける。

対話においては、その場で問いが決められ、その場で皆の話の流れからその人が今思いついたことを話すのだから、流れを追うことが本当に難しい。

 

まず、大抵の場合、皆から出た問いを理解することさえ難しい。どの問いを対話の出発点として決めるかの投票の時間までに、出たすべての問いの意味を理解することが難しい。

 

例えば以下、あるときの授業で「写真」がテーマだった時の、一部の問い。

 

1) How might a staged photo do better at presenting the truth of a message in a photo? Can it still be considered a truth if its not candid?
2) How does the method/technique of field dissertation influence the scale and focus of my inquiry of my perception of truth?
3) Do photographs necessarily objectify place? Is an additional process needed to complicate this objectification?
4) At what point is the experience of a photograph a function of the photography: and at what point a function of the viewer

 

一発でその文章がわからない。

あと大体手書きなので、そもそもアルファベットを追うことから時間がかかることもある。

 

ああ、やっと書かれた文字たちを読めた(理解ではない)、と思った頃には投票が始まる。全部を理解できていないまま、なんとなく気になるかも、と思ったものに投票する。あとで、もうちょっと時間をかけて問いを見返すと、「あぁ全然こっちの方が問いたい(考えたい)やつだった」と思ったりもする。

 

問いに必死で食らいついている間に問いが決まっていき、対話が始まる。

 

私からすると、半分くらい何言ってるかわからない話もあれば、大体何言ってるかわかるような話が出てきて、「なるほどね、これを喋ってるのね」と思った瞬間、また何を話しているかわからない話が出てきて、特にその人のパーソナルな体験の話になればなるほど、ついていけなくなったり。

対話に参加、という段階にさえ私は踏み込めず、人の話に耳を傾けたくても、それが叶わない。自分が話せないこと以上に、人の話を理解することができないというのがこんなにもつらいのか、と、ハワイで哲学対話に触れて、言葉の難しさや対話の難しさをようやく体感した。

よく今まで対話できてたな、成り立っていたな、と、日本で参加したり行った哲学対話たちを奇跡のように感じる。

 

日本にいた時から、言語偏重すぎる対話のあり方をちょっと見つめたいな、と思ってはみたものの、実際に自分が参加するときに日本語での哲学対話にそこまで根本的な苦しみを覚えたことがないせいで、やり切れてしまった。不便を感じてないからと、そのまま来てしまった。

で、こちらに来て、他者との意思疎通のレベルが落ちた自分になることを体験してみて、対話ってこんなにつらいんだ、とちゃんと感じられるようになった。

なのに週4回も対話の時間がある。

毎日のように逃げたい、と思いつつ、何も話せなくても授業に参加することがまず大事、と奮い立たせて、参加し続けた。

対話そのものはつらいけど、対話の授業に参加している人やその授業を開講している先生たちは皆素敵な人たちだったから、ただその縁を繋ぎ続けるためにも参加し続けた。

 

 

 

今日、はじめて、こちらで哲学対話のファシリテーションをした。

 

この学期も半分以上が過ぎ、哲学対話(正確にいうと、philosophy for children = p4c)に初めて触れる学生たちも、もうさすがに慣れた頃だろう、ということで、先生から、「来週からはみんながファシリテーターになって対話の場を回してみてくれ」と先週にお達しがあった。

ミッドターム(中間時期)が過ぎたら学生がファシリテーションをやる、というのは結構前から予定はされていて、でも「絶対無理」だと思ったし、その時が来てほしくなかったのが本当に本音。そもそも、みんなの対話の流れにいつもついていけない人間が、何ができるんだ?と思うと怖くて怖くて仕方なかった。

なんとか先生が忘れてくれたり、他にやることできちゃって、なあなあになって、気づいたらファイナルの時期、みたいになってはくれやしないかと願っていた。普通にちゃんと覚えていた先生。そりゃそうか。

 

元々は今日の授業でファシリをやるのが自分の予定ではなかったので、私も準備をしてきたわけではなかったが、今日やる予定だった子が急にこれなくなり、代わりにやってくれないか、と授業まえに連絡があったので、急遽ファシリをやることにした。

 

以前から、あんなにファシリをやることが嫌でたまらなかったのに、今日を迎えたら、「まあやるしかないのなら早めにやっとくか」と心が決まった。たぶん、学期初めの頃よりはちょっとはクラス(コミュニティ)に慣れたのもあるし、まあみんなが何言ってるかわからなくてもファシリはまとめる必要もないし、黙っていても場が壊れることはないという安心感をクラスに持っていたからできたのだと思う。

 

ファシリをやる上で、この今までの自分自身の経験をどうしても生かしたかったし、言葉ありきの対話をちょっと変えたくて、対話前に発言禁止のジェスチャーゲームをした。

これが私の今日のprompt(みんなの考えるきっかけとなる対話前のお題のようなもの)。

Gesture Game!と書かれたスライド

 

ずうっと前から、アナ雪2の序盤に出てくるジェスチャーゲームをやりたかったという個人的な願望もあったし、言葉が話せない、意思疎通にバリアが生じるということを、体感しつつもある程度楽しめる形にするのがジェスチャーゲームくらいしか思いつかなかった。

 

youtu.be

 

今日の授業は、出席を取らない分、みんな結構出席がルーズで、何人が今日来るのか、何人と対話することになるかわからなかったため、3人でも4人でも6人でも8人でも12人(12がクラスの人数)でも対応できる24個のお題を考えておいた。

 

結局、今日は先生合わせて全部で10人が出席だったので、5人・5人でグループを分け、私以外の4人でジェスチャーゲームをしてもらった。今日私のチームにいた人は全員男性で、「これちゃんとみんな楽しめるのか…?」と不安に思いもしたが、やってみたらわりとみんな苦悩しながら楽しんでいたように見えたし、何より答えを知っている私が一番楽しんでしまった。

 

ルールは簡単、言葉禁止でジェスチャーだけ、と指定。
時間を測って競争する形にもできたけど、単純に測るのが面倒くさいので競争ではなく、ただやるという形。

言葉を発さず、ジェスチャーのみで!と書かれたルールスライド

 

ジェスチャーのお題は色々。
24個を4人で回すのは多すぎると始めて気づいたので、今日やったのは、24個から勝手に選んで、

1. ミッキーマウス
2. パイナップル
3. 蛇
4. ハリーポッター
5. 波
6. 蜘蛛
7. コンパス(円を書く文房具)
8. かぼちゃ

ジェスチャーゲームをしてもらった。ひとりにつき2回ジェスチャーをする。

全体で60分くらいの時間があって、最初の15-20分くらいでジェスチャーゲーム、そのあと5分で問いだし。

問いを出しあったあとに、ルール説明(5分)。

「他の人の話に耳を傾ける」というルールと「他者の人格否定はしない」という2つだけ。

ちなみに、「他者の人格否定をしない」をなんと言ったら伝わるかわからず"Please don't deny others' personality"と最初書いたけど、みんなのアドバイスによって、"Please don't attack the person"とか"Please don't deny others' perspective/identity"の方が伝わる、と教えてもらった。

哲学対話始める前にルールとツールキットについて書いたホワイトボード

対話の潤滑油となるツールキット(問い方のコツみたいなもの)は説明はせず、ホワイトボードにあらかじめ書いただけにした。

哲学対話のToolkit

そこから問い決めをして(5分)、残り20分くらいでさらっと対話に入っていった。

 


ジェスチャーゲームについての話に戻ると、
蛇を、アダムとイブの物語から表現しようとしていたり、ハリーポッターを音から表現しようと"Hair"と"Potter(陶芸家)"を表して当ててもらったりしているクラスメイトや先生を見て、みんなすごく独創的で、感動してしまった。

ジェスチャーのお題を考えながら「私だったらこう表現するな」みたいな想像と全く違うものをみんなそれぞれ表現するから、「別に対話をせずとも、こういうものから人との差異とか他者と違うからこその面白さって感じられるな」と思うなどした。

 

自分の頭や身体で「それが何か」をわかっているというのに、「それ」を自分の直感的に思う形で伝えられない、伝えてもみんなが誤解をしてくるという言葉の壁ゆえの苦しさを簡単に再現できるのがジェスチャーゲーム。

だいぶ意図的な使い方をしたけど、このゲームの後は「コミュニケーション」を対話のテーマにして、それぞれが「コミュニケーション」から思いつく問いを出してもらって対話をしたのが今日の哲学対話。

 

4人しか私以外にいなかった対話だったけど、たぶんみんな楽しんでくれた気がするし、この導入からやっていいと思えたのも、Philosophy begins with playsなマインドを授業を通して体現してくれた先生の影響があったからだと思う。

 

本当に不安だらけだったけど、自分が言葉が不自由になる土地で、哲学対話のファシリができたという成功体験が一つ積まれました。本当によかった。