ある日ある日に思ったことたち

いろんな日のいろんな思いを詰め合わせたので文体がごちゃ混ぜです

 

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■終わりますように

 

喜びの瞬間が、日常に勝てなくなってきた。

この先どんないいことがあろうと、それがずっと続くわけもないんだし、そのいいことを享受するがために生を続けるのはしんどすぎる、と思うのが人生というものなんだろうか。

 

ああ、何か重大な病気にでもなってくれればいいのに、と19の時に願いすぎたからか摂食障害になったので、もうそんな願い方はしたくないけれど、生をがんばらなくてもいい理由が病気しかないような気がして(生きたくて仕方がないまま重大な病気を持っている人もいるのに本当に申し訳ないのだけど)、はやくこの生が勝手に終わりに近づきますように、とやはり願ってしまう。

 

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■来学期

 

アドバイザー面談がありました。

来学期取る授業を学科の先生に相談し、先生からアドバイスしてもらう機会で、全学生面談必須です。とはいえ一人15分の枠で、長いこと面談をして、というものではないですが。

面談しながら、卒業要件のためにはこれとこれとこれを来学期取れるといいね、と言われ、もう無理だよ、と思いながらも「そうですね、それらを取りたいです」とその場の私を誤魔化していきました。

こうやって、どんどん進んでいっちゃうんだな。

私はまだ進む準備ができていないのに。

 

でも、必死にしがみつかないとまたどんどん人と距離ができていく気がして、それも怖いです。私本当に何やってるんだろう。

その時々で必死こいて生きてきたはずだけど業績みたいなのもこれをやったと人に堂々と見せられるものもない。だから何やってるんだろうって自分も思うし、家族からもそう思われて疎まれています。仕方ねえ。

 

本音を言うと、勉強はしたいし大学という場くらいしか私は自分が生きられないと思っているので大学にはいたいですが、もう卒業はしたくないです。疲れたしどうでもいい。

学士号取りたいと言っているけど、本当のところは別にいらないです。でも院には行きたいから、そのためにはほとんど取らなくちゃいけないので取りたいと言ってるだけです。

学校に居続けるためにはお金が必要なのでお金さえあればいいんですけど、お金がなくなったらもう居られないので、さて生き方から考えないとなあ。どうしようなあ。

 

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■選ば(べ)なかった家族って、そんなにいいものなのか?

 

時々、人から、「家族と会えなくて寂しい」とか、「家族と話せない日があってつらい」とか、そういうことを聞く。その度に新鮮な思いで、「マジかよ」という感想が出る。

シンプルに驚くし、そういう感情を持つって、どういう関係性や歴史が紡がれてきたんだろうと、興味も湧く。

多分どこかではその言葉を聞くと羨ましいと思っているとは思う。

でももうその羨ましさは、家族にどうこうしてほしいとか、家族のためにどうこう頑張りたいという思いとは切り離されている。

まったく知らない人生を不思議に思うような、たとえば、「芸能人の人生ってどういうものなんだろう。あんなにたくさんの人から推されるってどういう感じなんだろう。まあ関係ないけど」と思うような感じ。

 

これまでも、そしてこれからもずっと抱え続けるだろう私の寂しさの根源は、きっと家族との関係から生まれたはずだろうけど、だから選べなかった家族との関係をどうこうしたいとかは今は本当にないし期待も何もしてないけど、そういうことを言える人の人生が本当に本当に気になる。どういうことなんだ?

 

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■それは文化的につくられたので

 

カウンセリングの時に、

「もう本当に限界なんだけど、人と一緒にいたり、人がいる場だと思うと、自分も意図していないのに元気な自分が出せちゃう。そうなることを望んではいないんです。でも人といるとそうなれてしまう。そういう自分が出てしまうことにも疲れて、そんな自分がいることに、より一層、壊れそうになる。元気に見せられる自分と、今の自分の精神的状態が離れすぎていて、私の意図しない私が出てくることがすごくしんどいです」

と言ったら、「なんでそうなるかわかる?」と聞かれました。

なんででしょう。わかりません、と言うと、「それは、文化的につくられたあなたです」とキッパリ言われました。

「韓国や日本では、自分がどんな状態であろうと『大丈夫』って言えることが美徳とされてしまうから、そのあなたは、ちゃんと文化的につくられただけです。今までそうやってきただけです」と。

そう言われて初めて、「ああ、この自分が、本当にありたい自分ではないと認めていいのだ」と思えた。

反射的に出てきてしまう自分に疲れていた。反射的に出るということは、それも私の一部だと思わなければいけない気がしていた。

でもそうでもないと思っていいらしい。

 

人生で初めて鬱になった時でも、友達や後輩が訪ねてくれた時に、すこし元気な自分を振る舞えたことがあった。

そんな自分が出てくると、私は本当に鬱なんだろうか、とその度に悩んだし、自分はすべてを欺いている気がした。

 

今でもそれはそう。

人といる時、人と話すとき、あまりに自分の精神的状態と圧倒的に違う自分が出てくる。こんなんだから、いざ誰かに相談したり話を聞いてほしいと言おうとしたって、「いやいや元気だったじゃん」と言われる気がして、ずっと抑え込んだ。自分も、自分はただ病気を使って言い訳をしたり甘えているだけなんじゃないかと思い続けた。

 

でも、一緒にいるその人のせいでも私のせいでもない、文化的・社会的なもの、と言われると、ようやく免責された気がする。

文化的な性質をインストールしただけで、それがうまくできただけで、これは私がありたい姿ではないのだと思っていい。

 

じゃあありたい姿はと言われると、今の正直な気持ちは、3週間くらい引きこもりたい。大好きなゲームを飽きるほどして、人に会うことを気にせず、たくさん泣いて、寝て、食べたくなったら食べて。そんな生活を、3週間だけでいいからさせてほしい。

でも、シェアハウスだと、そうもいかないね。引きこもったら、何か言われちゃうもんね。それが、難しいね。全部、疲れちゃう。

 

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■すぐ揺らぐ

 

そっか、無理に誰かの前では元気な姿でいようとしなくていいんだな、とおもった矢先、ある授業で、クラスメイトから「いつもあなたは笑顔でポジティブにこの授業を楽しんでいるから、その姿に私もすごく影響されているよ」と言ってもらえてしまった。

 

え〜…そんなこと言ってもらえるんだ…やっぱり笑顔でいたり元気でいることも大事なんだな、と思ってしまった。たとえ自分が元気なくても。

何を優先させるべきかわからない。

 

高3の時、人目がとても怖くなった。誰にも自分を見られたくないと思った。

元気を出せないから、ずっとうつむいちゃうから。元気になれない私に接してくれる人がいると、申し訳なくて、みんなの意識から消えたかった。

もう誰にも、気を遣われたくなかった。

気を遣わせてしまう人間であるということを意識するのが怖かった。

でも、気を遣わせたくもないし、でも自分も無理をしたくないから、やっぱり引きこもりたい。

 

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■カウンセリングふたたび

 

「今のあなたは、やすむ時。これ以上何かを頑張れる時期じゃない、今のあなたは。」と言われた。


確かに、もうこんなには、頑張れない。この学期をもう二度と続けたくない。2年もこれをやるなんてもう無理だよと今から思っている。やっぱ卒業無理かしら。

 

生そのものがしんどいのは事実で、人生とはそういうものだと言われても、そんなことは知らない、もう先をも考えたくないくらい、しんどい。でも、そうはいっても、いろいろとあって、今すぐ日本には帰れない。

とりあえず、今は、来期の取る単位数を減らして休養する時間をもう少し取ろうかな、という計画だけ立ててます。また、歩みは遅くなるけれど。早く安定したい。安心したい。

不安定が今ずっと続いているのは、自分のこれまでの過去のツケが回ってきてるのだろうから、自分でどうにかするしかないのだけれど。疲れたなあ。

 

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■人と視覚

 

人のいるところにはいたい。でも見知らぬ人々の数多いまなざしに触れたくはない。たとえ一瞬で、それが意図的に私に向けられたまなざしでなくとも、向けられたくない。

でもずっと孤独がいいわけでもない。

 

コンタクトやメガネをしなければ、私はその人がどこを向いて何をしているかもよく見えない世界を見ていられるし、その状態で外に出るのはある種、楽ではあるんだけど、まあそうなると私自身もやるべきことに支障が出るので難しい。

自分の手の届く範囲くらいははっきりと見えるくらいの近視だったらなあ。

 

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■身体のぬくもりは感じたい

 

そういう意味で、人のいるところにはいたい。

多くの人がいるところだと、やっぱり、自分がそうありたくないと思っていても気張っちゃうから、わがままを言うと、元気がなくてもそれは不満だったり不機嫌になっているわけでもないと知ってもらえている気の置けない人と一緒にいたい。

できれば、身体に触れたいし、触れられたい。それは必ずしも性的な接触を意味してはいないが、長めのハグがしたくてもそうもできる関係はこっちにはいない。

 

2ヶ月ほど前に別れた恋人、いつかまあ別れるのだろうと途中からずっと思っていたし、別れては戻ってを繰り返しながらも本当の別れになるのを止めたかったのは、彼の前では、元気でないところも受け入れてもらえてたから、そうあれる関係性や場をなくすのは自分にとってとても大きなダメージになることがわかっていたから。自分のことばかりですね、私。

今、そういう人との関係を失って、苦しさの行き場もなくなってしまって、身体が軽くて軽くて耐えられない。重みがなくて、生きている心地もしない。

友達の菜月ちゃんが、最近「他人から触れられないと、自分の輪郭が分からなくなる」と言ってくれたのだけど、まさにその感覚。的確すぎて、この言葉が頭から抜けない。輪郭がなくなっていっている感覚がある。

 

安心して触れられる人って関係性の構築ありきではあるのだけど、もうその構築さえ今はできる気力もないし、だから正直、身体の関係だけでも、と誰かを求めてしまうところがある。ハグとか、安心できる関係は時間がかかるからって損得がはっきりしている身体の関係だけでも、と望む時点で不健康だなあとは思うんですけど。

何か関係を誰かと築くとしても、シリアスな関係が一番自分にとって精神衛生上もいいのはわかっているけど、今の心身がもうそれどころじゃないので、お互いがそれでいいならそれでいいじゃん、と。でもマッチングアプリとかもめんどくさい。

 

求めるものはたくさんあっても、それを満たす手段はそうそう落っこちてはないよね。

求めるものがたくさんある自分がいけないのか。求める前に与えよって、この場合どういうことですか。わかりません。

 

求める自分がおかしくていけないのなら、もう生きること自体が合っていないんだと思います。