教育

義務教育を受け終えてから、10年以上が過ぎた20代後半になっても、まだずっと、自分の受けてきた教育のことを考える。

救われてきた、「場」としての面と、傷を負った「能力(主義)」の面と。

 

 

私の研究興味範囲を聞いたある人が、「教育は、誰しもが受けた分、それぞれの理想がある。だから難しい」と言った。

 

 

それはその通りだと思い、そこから、その言葉を何度も思い返した。

自分のやりたいことや知りたいことに自信が持てない半年を過ごして今、ようやく自信が持てたような気がする。

 

 

 

今年度から小学校教諭になった友人は、「学校じゃなければ才能爆発する子、めちゃくちゃいる」「大人が子供の才能を搾取する瞬間をたくさん見てきた気がするから出来るだけ掬い取ってあげたい」という。

 

私は多分、小さい時から爆発するような才能もなく、学校の中では可もなくそこまでの不可もなくで、学校教育そのものにそこまで傷をつけられたような気はあまりしないのだが、それでも、やりたいことをやれなかった、というか、やりたくない勉強をとにかくやらされていた記憶だけははっきりとある。

 

もっとあれができていたら、今の私はこうではなかったのに、と思うわけではなく、単純に、私の「やりたい」「やりたくない」という気持ちを一人でも掬い取ってくれる大人が近くにいてほしかった。

それが実際にやれるかとか、やらずにいられるかが重要なのではなく、そうした自分の気持ちを知ってくれて、そしてそれを馬鹿にしたり反抗と見做さずに、怒らず、それを受け止めてくれる大人が近くにいてほしかった。

 

 

疑問を持ちながらも必死こいて信じ、祈り、伝道のために自分なりに努力をし、多くの時間を捧げたあの宗教は、私の感情や私の探求など何一つ大事にはしてくれなかった。

私が何かができるたびに喜んでくれるだろうと思い込んでいた私の親は、私が本当に楽しんだことには特に興味を示さず、できようになることをずっとずっと求めた。そこに終わりなどなかった。

学校や塾は友人と会える大切な場所だったけど、親の望んだ環境で出会った人々に、自分の本当に苦しいことを言っていいのかわからなかった私は、心を落ち着け身体を預けられる別の場所を探すのに必死だった。

 

それでも私は大学まで行かせてもらえる環境にあったし、それなりに社会で生きていけるだけの知恵をつけさせてもらえたのだから、被害者ではいられないだろう。

特権だらけの私で、しかも私の苦しみはきっとありふれたものだから、被害者ぶるなんてしてはいけないのだろうとも思う。

 

 

 

でも、やっぱり、苦しかった。

ずっと苦しかったよ。

あれはあれで、本当につらかった。

 

もう誰にも届かない叫びだけど、いや、もはや誰かに届かせようとすること自体浅ましいのかもしれないけど、今きちんとこの声を出しておきたい。

友人が、もはや教師側として、学校教育の中で才能を押し込められている子の一部でも掬い取ることができたら、と言っているそばで、私はいまだに、助けてほしいと、癒されたいと、叫び続けている。

 

 

 

そんな私だから、教育を知りたいし、教育を誰かと語り続けたいし、教育に関わってみたい。

理想の教育なんて、いつまで経ってもきっとわからない。

結論づけたくて教育に興味があるわけではない。

 

受けてきた教育も、その教育をどう思っている(た)かの背景も人それぞれ違うために理想を語ることが難しい。それはそうだ。

でも、だからこそ、ずっと、そのわからなさを知りたい。

もっと、他者が教育の何が苦しくて、どんな教育があってほしかったのか、どの教育が自分を救ったのか、あるいは形作っていると考えているのか、そしてまた何が教育の欠陥だと思っているのかを知りたい。

 

人の声を知りたい。

それが学ぶ原動力になっているなら、それでいい。

 

私もまだまだ癒されたいし、私の周りでまだ癒されたいと思っている人がいるなら、その声を知りたい。

だから今はずっと、教育に興味がある。

ただそれだけで、まずはいいと思いたい。