さみしいからバスケをするんですか

帰国してから、ハワイにいた半年弱のうちでなかなか時間が取れていなかった運動の時間を取りたくてたまらなくなった。その中でも、やっぱり私はバスケがしたかった。

『スラムダンク』No. 71(原作コミックス8巻・アニメ27話)で三井寿が「バスケがしたいです……」と言うシーン

みっちゃんの「バスケがしたいです……」
by『スラムダンク』No. 71(原作コミックス8巻・アニメ27話)

 

クリスマスカードを贈ったことをきっかけに、私が帰国したすぐの年始に会おうと連絡していた中高時代の同級生かつ部活仲間だった友人がいた。

彼女と会えた日に色々話していると、彼女は今参加しているバスケサークルがあるという。どうしてもバスケがしたかった私は彼女が直近で参加するという日についていった。

久しぶりにプレイした割にはまあまあ動けてしまったが故に、そこから調子に乗ってバスケをする予定を入れすぎ、結果的に今は怪我をして療養中だが、今年の1月の半ばからバンバンとバスケの予定を入れていたのは、バスケすることが楽しくて楽しくてたまらなかったから。その時間がただただ楽しかったから。

 

いくらプロがやろうとも、知らん人の試合を見ることがどのスポーツであっても苦痛を感じる私にとって、スポーツ観戦は一度たりとも馴染めたことはないが、今この瞬間からでも知り合えた人たちのプレイを見るのはたまらなく好きだし、他チームであろうが、いいプレイを見れると本当にうれしくなってしまう。私自身が誰かと一緒にプレイしている中で、うまく連携できたり、華麗なシュートを入れるチームメイトを見た時には幸せを感じる。

 

バスケをすることで幸せだったのは、ただ周りと楽しくプレイができることだけではなかった。私はバスケをすることでこんなにも楽しくいられるんだと知れたことが重要だった。この時間を持てば、ちゃんとすごく幸せなんだと知った。そう知れている自分がいたことも幸せだった。

バスケをするには人が必要だし、場所も必要で、常に他者依存な趣味だけれど、それでも幸せであることには違いないのだから、これで幸せになってもいいのだと思えた。

 

 

 

私はもしかすると、「さみしい」という感情を他の人より感じがちなのかもしれない人間で、そのことがいつも恥ずかしかった。さみしさを感じる自分や、さみしい感情の延長線上でしてきてしまった行動すべてが恥ずかしい。

さみしさをあまり感じない(ように見える)人や、さみしさ故に過ちを犯すことなんてないような人をいつも羨んで、どうしたらそうなれるのだろうかと、いつになったら自分は「さみしい」から解放されるのだろうかとしょっちゅう考える。

さみしさを克服することが自分が大人になるということだと今でも心底思うし、さみしい気持ちが薄れたりさみしい気持ちをうまく抱えられることが自立の一つだとも思う。大人っぽくなりたいし、依存気質だからこそ自立への憧れも強くある私にとって、さみしさとの対峙はこれまでの人生で最大命題の一つだった。

 

さみしくない人間でいたい。さみしさがあっても、それをものともしないくらい強い人間になってみたい。さみしさを感じても、自分のとる言動がさみしさとつながりが薄い人間でありたい。

 

こんなことを思うと、誰かが時に「みんなさみしいんだよ。あなただけじゃない(から恥ずかしがることじゃない)。」と語りかけてくれることもあったけど、みんなが自分と等しくさみしさを抱えているということがたとえ事実であっても、己のさみしさコンプレックスが抜けることは私にはそうそうない気がする。

皆がさみしい人間だとして、それなら尚更、さみしさを克服した人間でありたい。そういう人間がかっこいいのだと思っているのだろう。

できれば強く、さみしさを追いやりたい。

 

しかし、いつもいつも人を必要としている自分が事実ここにいる。そんな自分を隠したい。きっといつ何時も、それを隠せてはいなかったのだろうけど、隠そうと思ってきたし、隠せるような自分になるために色々なことをできるようになりたいと思っていた。

人とつながるために、人が自分を見てくれるように、学位とか知識とかスキルとか"有能"性が自分にほしいのだろうと思っていたけれど、もしかすると、それ以上に私は、人とつながらなくてもなんとかできる、さみしさに強い人間になりたかったんじゃないか。だから、"有能"な人たちが持っているとするようなもの/できる何かがたくさん欲しかったのかもしれない。

 

さみしさを強く持ち続ける自分のことがいつもずっと恥ずかしくて、その気持ちは今もあるけれど、帰国してから友人と会って満たされたり、バスケをして満足感を異様に得られている自分を見ていて、どんなに他者依存で幸せが決まる人間だとしても、これで幸せな気持ちになれるなら、幸せだと心から思えているのなら、もはやそれはそれでいいのだと少しずつ感じ始めていた。

 

時が私を自然とそうさせたわけではない。

生まれ育った場ではない土地で出会い、短い時間しか共にいなかったというのに、共にいた時間、そして帰国が決まったときや帰国してからもずっと、私が笑顔でいたり楽しい気持ちでいることを心から願ってくれている人々がいたおかげであったに違いないと思う。

日本にもそういう友人は周りに絶対いたのだけど。そういった人たちに本当に失礼なことなのだろうけど、ハワイでようやくそういう人が周りにいてくれたのだと気づけた。

 

過程はどうであれ、何をするのであれ、私が幸せであることを願ってくれた人がいたから、他者依存性の高いスポーツで幸せになっても、それは恥ずかしいとか恥ずかしくないとかじゃなくて、ただそれでいいのだと思えた。それでいいというか、そうでしかないから。

 

私は本当に何をするにも人が必要な人間で、もうそれを飲み込むしかないのかもしれない。ある程度克服しようと思っても、しきれないのかもしれない。もうちょっと頑張ってはみるけど。

 

でも、今の私でも、叱ったりせず一緒にいてくれる人って、全然最初からちゃんと周りにいてくれたじゃん、とようやく気づけるようになって、そのうちに、自分の変えようのない好きなものとか、こういうもので幸せになる、というものが「さみしい人間」のそれだとしても、そういう自分としてやっていくしかないし、周りもきっとそれで叱ったり見捨てたりなんかしないのかも、と思えてきた。

 

 

これは、最近読んだ漫画に書いてあった言葉。

「力の足りない自分に自己嫌悪じゃなくて 誰かを必要とする謙虚さを持つんです」

『はじめて恋をした日に読む話』第39話(コミックス16巻)

 

今日は、夜、考え事で頭がこんがらがらがらって、でも心情をノートに書こうとしてもうまく書けず、絡まりすぎた糸を整理することもできず、一人でいるさみしさにやられながら自己嫌悪に陥っていたのだけど、そんな時に人が救ってくれた。

人とお話をして、聞いてもらっているうちに、私はこうして人と話す時間がないとダメだけど、「こうする時間が必要だ」って、この人にはもっとお願いしてもいいのかな、お願いしてみよう、と電話を切った時に思えた。包容力というのは、受容のうちにのみ見出されるものではなくて、受容しているうちに人の自主性を引き出す力のことを言うのかもしれない。

 

その人の包容力に救われた今、思う。

もしかしたらもうちょっと、人に「さみしい」とか、「わからなくなったから助けてほしい」とか、言ってもいいのかな。

ずっと、さみしくないふりをしたかったし、さみしさを悟られないでいたかったし、それはさみしがりやだと知られたら重くて見捨てられるかも、というのが怖かったからで、だから今までそういう素直な気持ちを本当には言っちゃダメなのだと思っていたけど、もしかしたらちゃんと言ってみてもいいのかな。

なんなら、きちんと話をしたい時も、たださみしくて話をしたいという時も、その気持ちを伝えてみたい気がする。と、少なくともその人には思えた。

 

それが、「誰かを必要とする謙虚さを持つ」ということにもなるのだろうか。自分だけじゃ謙虚さと卑下をよく履き違えているうちにおかしいことになっていくのだから、この漫画にあった「謙虚」というやつも学んでみてもいいのかもしれない。

 

 

人と一緒に何かをしたり、話したり、そもそもただ一緒にいるという時間が私には必要で、それらがなぜ必要かといえば、楽しい気持ちになったり幸せな気分を得るために必要なのだとしたら、その時間を求めてみるのはそんなに悪くないのかも知れない。

それらをさみしさの克服のためとか、自立した大人になるためとかわけのわからないことを言いながら押し殺そうとしたら楽しい気分になれる時が少なくなる。そちらの方があまり良くないのだろう。そうしてきてしまったせいで、たくさん問題を起こしてきてしまったのだから。

 

人に少しずつ「一緒に」何かをしたり、いてくれるようにお願いしたり、そのために力を借りようとしてみることも、学んでみたい。

 

謙虚かはわからないけれど、「いつもすごくさみしいんです。でも、さみしいからこそ人が感じられる時間が有り難く、そういう時間もすごく好きなんです」と言う自分を過度に恥ずかしがらないようにいられる強さは持ってみたいと思う。

そのあとに、「だから、これからも一緒に私といてください。」「一緒にこんなことをしたいです。」と言えるように。

 

 

 

 

 

 

 

 

バスケと冒頭のセリフを話した三井寿で思うことが一つ。

思い出話。ただの、思い出話。

 

 

人生で一度、「みんなとバスケがしたいです」と泣き崩れたことがある。

 

通っていた中高一貫校バスケットボール部に入った。

小学生の頃、バスケが好きとも特段思っていなかったのに、学校のミニバスチームがあることを知った時、なぜかふと入ってみたいと思い、クラスメイトの男子に「お前がバスケなんか」と笑われながらも少しの間ミニバスに触れた。

勉強や塾をおろそかにするからと親に途中で辞めさせられたが、中学受験後に入った女子校の中で最も活気がありそうで、活発そうな部活がバスケットボール部だったし、ミニバスで少しやったこともあったし、小学校の時に一番仲の良かった一つ上の学年の子がそこのバスケ部に入っていたから、ほとんど他の部活を考えることなしにバスケットボール部に入った。

途中でバスケが嫌になったりした時期もちゃんとあった。それで同級生たちの反感を買ったこともあったし、同学年の部活仲間は10人近くいて、人間関係のいざこざもそれなりにあったけど、やっぱりバスケは楽しかった。

 

弱小校で、部活に力を入れることもない、対外的に物静かな進学校の女子校であった母校は、どこの部活も高校2年生の秋で引退の時期を迎えていた。でも、私たちの部活だけ、途中から他の学校の運動部のように、高校3年生の春の試合で引退することになった。

そう決めたのは私たちの二つ上の学年からで、伝統的なことではなかったから、私たちの学年も、一人ひとり引退の時期の選択を迫られることになった。

高2の秋でやめてもいいし、高3の春でやめてもいい。選択肢を与えられた私たちは本当に悩んだが、中高時代に勉強の楽しさを一度も見出せず全く勉強してこなかった私は、受験勉強の遅れが怖くて、高2の秋で引退することに決めた。スタメンの中で、高2でやめると決めたのは自分だけだった。

私ともう一人のプレーヤーの友達にとっての引退戦であった高2の秋の試合は、あっけなく負けてしまった。惜しいところまでいった気もするけど、確かに負けた。

これで終わりなのかと思うと、自分で決めたことの割に信じられない気持ちだったことを今も覚えている。きっと顧問とコーチは何かを感じ取ってくれて、試合後に私を呼び出した。

顧問とは何度も何度も引退時期について話し合った。本心では部活を続けたかったけれど、受験を恐れていた私は、「高2でやめなければ将来まずいだろう」と本気で思ってしまって、話し合うたびに泣きながらも他の同級生より早い引退を決めた。だけど、顧問が最後まで選択肢をくれた。試合に負けて涙し続ける私に、「どうしたい?」と尋ねる。

 

口から出た言葉は、「もっとみんなとバスケがしたいです……」だった。

 

本当にこの言葉しか出てこなかった。三井とはまったく状況が異なるけれど、三井の気持ちがわかる人間はきっとあの部活の中で誰よりも私だと思っている。

「あれはマジでみっちゃんだったよね」と、引退してから顧問とコーチに揶揄われた。

 

三井も私も、たぶん、猛烈に、人と一緒にバスケがしたかった。そして、バスケが好きな誰もがきっとそうなんだろう。どうですか?

 

バスケをする意義、ただただ人とやることだと思ってもいいのかもしれない。

たとえ孤独な練習時間だって、人とやるためなのだと思うと、バスケって、私のようなさみしがりやを救ってくれるスポーツなのだろうかなあと感じる。

人を猛烈に必要とするスポーツ。人を必要としてもいいスポーツ。人を必要とするためのスポーツ。だからきっと離れられない。

 

私はずっとさみしくて、そういうわけでバスケが好き。大好き。